「どうだ、リオ、目指してみないか?」
大学の試験期間。美容院に行き、髪を切り終えた時だった。所属する立命館大学陸上競技部のコーチからかかってきた電話に、困惑した。
当時の日野さんは、競技者として五輪を目指せるレベルには到底なかったからだ。
「え、どういうことですか?」
思わず、そう聞いた。
走ることが辛くなっていた日野さんに訪れた契機
球技は苦手でも、マラソンは得意だった。中学生から本格的に陸上をはじめ、済美高校時代は全国高校総体に3年連続出場する活躍を見せた。
憧れだった立命館大学に進学するも、怪我などもあり記録に伸び悩んだ。走ることが楽しくて続けてきたはずなのに、気づけば走ることが辛くなっていた。
日野さんは自身を「昔はマイナス思考になりがちな性格だった」と語る。落ち込んでいる様子を見かねたコーチから「気分転換に」と、「障がい者スポーツ指導員」の資格を取得することを勧められたという。
「パラリンピックを目指しているけど、伴走者が足りなくて練習に困っている選手がいる。せっかく資格を取ったんだから、(伴走者を)やってみないか」
冒頭のシーンの続きだ。「リオ、目指してみないか?」という誘いは、競技者としてではなく、伴走者として、という意味合いだった。
「今まで障害のある人たちと接したことがなかったので、自身の障害に対してマイナスのイメージを持っている人だと思っていました」
近藤寛子選手との出会い
その先入観は、一瞬で崩れた。
サポートすることになった、網膜色素変性症の近藤寛子選手。「走ることが私の生きがい」だと笑う、底抜けに明るい人だった。

左:近藤寛子選手、右:日野未奈子さん
はじめは、ゆっくりとしたジョギングを共に行った。伴走者とランナーは輪になった1本のひもを互いに持ち、2人3脚のようにして走るが、このひもを持ったのもこの時が初めてだった。
日野さんの父親と同い年の近藤選手。彼女の話に、驚愕したことがあったという。
「近藤選手はお子さんが3人いるのですが、フルタイムで仕事もしている。朝早く起きて子どもたちのお弁当を作って、そのあと身支度して、電車やバスに乗って通勤する。もう、本当にすごいな、と。母親もしながら、さらに走ってイキイキとされている。こんな方の力になりたいと、本気で思いました」

親子ほど年が離れた2人だが、不思議とウマがあった。
「練習を時々見るくらいで、リオの地まで帯同するとは最初は思っていなかった」と明かす日野さんだが、気がついたら2週間に1回の練習が、週に1回、そして週に2回、3回と増えていった。2人の関係は「競技者と伴走者」以上の関係へと変わっていった。
「何でも相談できる母親のような存在でもあるし、競技を共に戦う戦友のような存在でもある。シビアな話をすることもあるし、私が仕事の愚痴を聞くこともある。だから、友達のような存在でもある。年の差とか、伴走者だからとか、そうした関係を意識せずにパートナー関係をもてたことが、競技にも良い影響を及ぼしたのだと思います」

伴走者とは、何か
大学院では自身の経験も踏まえて、視覚障害者ランナーの伴走者に関する研究を行っている日野さん。伴走者は選手を支えている存在だと見られがちだが、「選手にも支えてもらっている」と語る。
「視覚障害のマラソンでは、嬉しさ2倍、苦しさ半分という言い方をするのですが、体調も含めて互いを理解しあった上で1つのゴールに向かうことは、1人で走るよりもっと嬉しい」
日野さんは伴走者になってから、より筋トレや食事にも気をつかうようになった。もはや、自分だけの体ではないからだ。
「こちらも前向きなパワーをもらえる。伴走者になってから、『あなたのサポートが必要』と私を頼ってくれる存在がいると、私も頑張らなきゃという気持ちになるし、選手の力になっている実感を得られます」

撮影:大日方航
伴走をはじめたことにより、伸び悩んでいた自身の競技にも好影響が出てきた。マイナス思考だったメンタルも、良い方向に向かっていった。
共に練習した初日から、日々の練習実績、タイム、伴走して感じたことなどを「伴走ノート」に記録している。すでに6冊目で、日野さんにとってなくてはならない『伴走の教科書』になっているという。
「2本目から息が上がってしんどそうだったとか、前回の同じメニューとの比較、腕振り、体型の変化などを記入しています。試合前に見返すと、練習による変化や、違いを振り返ることができます」
女性伴走者の需要
伴走者は、選手の移動や着替え、トイレなどのサポートをすることも大切な役目だ。しかし、視覚障害者ランナーの女性人口が少ないことや、男性の方が走力があることなどの理由があり、女性の伴走者は非常に少ないのだという。
「男性の伴走者は、女性ランナーの着替えや、レース前にトイレに行きたいときに、最後までサポートすることができません。リオでは3週間現地に滞在したのですが、男性と女性でペアが部屋など離れて生活すると、何かあった時にすぐそばにいることができない。ですから、女性伴走者の需要は高いです」
伴走をする上で意識していること
普段の練習から意識しているのは、「マイナスな言葉を言わない」ことだ。選手が前向きになれる、ポジティブな声かけを心がけている。
「結果が出なくても、落ち込んでいる暇はない。伴走者が『これじゃダメ』とか言っていたら選手にもネガティブな気持ちが伝わってしまう。最初は無理矢理にでもポジティブな声かけをしなければならない。もし失敗しても、『大丈夫、次がある』『次はこうすればいい』などと声をかけています」

目の代わりとなる伴走者の掛け声一つで、選手の気持ちは敏感に変化する。特に日野さんが意識するのは、「声の表情」だ。同じ「こんにちは」という言葉でも、トーンと抑揚によって聞いている方は前向きな気分になれる。
こうして日野さんは「支える側」を経験することで、自身の「ネガティブ思考」を徐々にポジティブなものに変化させることができたのだろう。競技の結果が同時に向上したのも、メンタルの変化が大きく寄与しているのかもしれない。
伴走者になって苦労したこと
伴走者になってから最も苦労したのは、競技面というより生活面のサポートだという。どこまでサポートしていいかの線引きが、わからなかった。
伴走者になってから約9ヶ月。はじめて、長期の合宿に帯同した。それまで何度も共に練習してきたものの、同じ部屋に宿泊し、泊まり込みでサポートをするのはこれが初めてだった。「どこまでやったらいいんやろう、やりすぎでもお互いしんどいよな」と、サポートしたいのに、うまくできないもどかしさがあった。
夜中、泣きながら家に帰りたいと母親に電話した。「しんどいのはあなただけじゃない。近藤選手だってそうかもしれない。はっきり、何をして欲しいのか話しなさい。でも、どうしてもしんどくなったら帰ってきなさい」という母の言葉と、合宿終了後に不十分なサポートしかできなかったことを謝罪したメールに対する近藤選手の「十分やってくれたよ、これからもよろしくね」という返信に救われた。
生活面のサポートを、どこまですればいいのか。これが、日野さんが悩んだ部分だった。
しかし、それは時間をかけて競技者と話し合うしかない。「会話を積み重ねることによって、そのラインがわかってきた」と日野さんは振り返った。
大学院では、「伴走者にかかる負担感」を研究している。いわく、「伴走者はやりがいを感じられる一方で、心理的なストレスがかかることは多い」のだという。
特に心理的なストレスとなるのが、「絶対に伴走者はリタイヤできない」という点だ。伴走者として走るからには最後まで選手を導かなければならないため、体調不良や、まして怪我をすることは許されない。
「自分一人で挑む以上の競技者としての自覚や、準備が必要です」と日野さんは語る。

撮影:大日方航
リオ・パラリンピックへの挑戦
日野さんがサポートし続けた近藤選手は、2016年 2月に行われた別府大分毎日マラソンで2位に入賞。リオ・パラリンピックへの挑戦権を獲得した。
「当時、近藤選手は日本ランキングでは6番で、日本代表に選ばれることは周りの評価的には『無理だろう』という感じでした。でも、『想いは力』というか、信じて願えば本当に夢は叶うんだな、ということを実感しました。実現してくれたのは近藤選手です」

リオ、レース前
近藤選手の伴走者は2人。日野さんが近藤選手のサポートをするのは、スタートから20km地点まで。ゴール地点で、近藤選手の帰りを「祈るように」待っていた。見えてくる、近藤選手の姿。抱き合って、言葉もなく、わんわん泣いた。
リオの地では、5位という戦績だった。
「レベル的にはメダルを目指せるわけではなかった。事前の目標は、笑顔でゴールすることでしたし。そういう意味では納得のいく結果を残せましたし、伴走者としての役目を果たせたと思っています」

撮影:大日方航
21歳。伴走者としては最年少でリオの舞台に立った日野さん。プレッシャーは、「逆に」なかった。本人としては、初めての海外でもあった。
「色々なものを吸収して帰ろう、と思っていました。自分の学んだことを報告するような講演活動や、執筆活動にも携わらせて頂いて、学生として大舞台に立てた誇りもあります」
まさに、人生が変わった。特に、閉会式の「鳥肌の立つようなパフォーマンス」を間近で見て、2020年に東京で行われるこの一大イベントになんとしてでも関わりたいと思い、その場で大学院への進学を決意した。
2020年への思い
東京パラリンピックにも、伴走者として出場を目指している。リオの地でサポートした近藤選手ではなく、1500mなどを得意とする井内菜津美(いのうち・なつみ)選手をサポートする。
井内選手は、10月6日からインドネシアのジャカルタで開かれるアジアパラリンピックにも出場予定だ。

左:井内菜津美選手、右:日野未奈子さん
「2020年の東京では、ドラマチックなことに女子マラソンのレースの日が井内選手の31歳のお誕生日なんです。なんとかしてその舞台に立たせてあげたい。私たちだけじゃなく、家族含めいろんなサポーターが大会のために活動している。みんなの夢を叶えたいです」

最後に、自身としての今後の目標を聞いてみた。
「大学での4年間、伴走に出会って人生を変えてもらったと思っています。今後は大学機関に残って、学生のサポートや障害者のスポーツ支援を実現できるような人物になりたいと思っています」

撮影:大日方航
編集後記
伴走者。一般的に馴染みのない言葉ではある。「ばんそうしゃ」とパソコンに打ち込むと、最初に予測変換で登場する言葉は「伴奏者」だった。「ピアノの伴奏者」という文脈で、よく聞く言葉かもしれない。
では、「伴走者」とは何だろうか。検索すると、「視覚障害のあるマラソンランナーに伴走する人」というシンプルな定義が出てくる。
「伴奏者」と「伴走者」。いずれの言葉にせよ、「伴」という言葉にともなう、「つき従う者」という意味が存在する。
しかし、「伴奏者」もそうなのだろうが、少なくとも「伴走者」の実情は「ただつき従うだけ」では成り立たない、難易度の高い存在であるのだということを、日野さんから話を聞くにつれて痛感した。
まさにこの「伴走者」という存在について書かれた小説、浅生鴨氏の『伴走者』(2018年 講談社)にも伴走者を務めることの難しさが書かれたシーンがある。
例えば、伴走者とランナーは、輪になった1本のひもを互いに持って走る。このとき、腕の振りがランナーと一致していなければロープを引っ張ってしまうため、伴走者はランナーの腕の振りに、自身の腕の振りを合わせなければならない。
『両腕をコンパクトに締めて腕をやや内側に降るのが淡島のフォームだが、ロープを持つ側の手はランナーの前へ突き出すようにしなければランナーのフォームを崩してしまうことになる。空いているほうの腕は内側へ、ロープを持っているほうの腕は外側へ。全身を斜めに傾けたような体勢になる。これは辛い。伴走者はずっとこんなフォームで走らなければならないのか。』(1)
そして、伴走者は選手の「目の代わり」にならなくてはいけないため、見えている景色を正確に選手に伝える技術も要求される。
『普段、いかに自分が視覚に頼って生きているかを思い知らされる。周りの状況を正確に、そして簡潔に伝えること。伴走者には言葉の技術も要求される。ただ人より速く走れるだけでは、伴走などできない。』(2)
小説の中で伴走者が支えるランナーは、ひもの持ち方について『もっと端の方を握れよ。まぁ、それは俺の好みなんだけどさ』(3)と、伴走者に自身の好むやり方に合わせるよう要求するが、日野さんいわく、選手によってサポートのやり方が変わることは当たり前のようにあるという。
例えば、レース中の声かけ。これも、選手によって微妙にやり方が変わる。特に、直線に入る地点での声かけのタイミングだ。
早めに声をかけた方が準備できて良い場合もあるが、少し遅めに声をかけたほうが思い切りよく走れる選手もいる。選手によって、タイミングは異なる。
そして、こうしたサポート技術を身につけることの前提として、相当程度の「走力」が求められる。女性の伴走者人口が少ないことも、男性と比較して走力が不足することが理由だということだ。
日野さんは自身の経験を通し、現役の伴走者、そして研究者として後進の育成に力を入れていくという。
インタビューを通して、「伴走者」とは並大抵の仕事ではないのだと実感することになった。2020年の舞台で、日野さんが井内選手の伴走者として輝く姿に注目だ。
《聞き手、編集:大日方航》
(1)浅生鴨『伴走者』株式会社講談社,2018年,P.44
(2)同書,P.56
(3)同書,P.56