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【スポーツビジネスを読む】Strava三島英里シニア・カントリー・マネージャーに訊く 前編 アプリ界で「2000万をお代わりした女」が誕生するまで

【スポーツビジネスを読む】Strava三島英里シニア・カントリー・マネージャーに訊く 前編 アプリ界で「2000万をお代わりした女」が誕生するまで
Strava シニア・カントリー・マネージャー 三島英里さん 撮影:SPREAD編集部

サイクリストならもちろん「Strava」をご存知だろう。StravaはSNSおよびGPS機能を組み込んだフィットネストラッキング・アプリで2009年、米カリフォルニア州サンフランシスコ発祥の同名企業でもある。世界195カ国で9,200万人以上が使用しているが、日本ではまだ2018年に本格的に活動を始めたばかりで、あまりスポーツに興味がない層にとっては少し縁遠いアプリかもしれない。

しかし、スポーツという観点からStravaの日本代表、シニア・カントリー・マネージャーの三島英里さんに訊ねると、ちょっぴり意外な応えが返って来た。自身がスポーツに携わって来たかというと、実はそうではなく、中学から高校、大学と吹奏楽部で過ごし、いわゆる「部活」のような汗臭い「スポーツ」とはあまり縁なく学生時代を過ごしたという。

三島英里(みしま・えり)

●Strava Inc. Japan Senior Country Manager

アスリート向けソーシャルプラットフォーム「Strava」の日本のシニア・カントリーマネージャー。広告代理店勤務時代に、当時はまだ日本に参入したばかりのFacebookの広告販路開拓を担当。その後2011年に初期メンバーの一人としてFacebook Japanに入社、日本の成長戦略に従事。14年にFacebook傘下のInstagramに転籍し、アジア太平洋地域を担当する初の社員として、リージョンのコミュニティ戦略を促進。18年よりStrava Inc.に入社し、東京に拠点を置きながら日本でのグロースを推し進める。

◆【インタビュー後編】「グロースの女王」が語る成長の3つの秘訣

サンフランシスコ本社で1マイル自己ベストに挑戦する三島英里さん 写真:本人提供

■レクレーションが身近なアメリカで育つ

ただし、5歳からアメリカ・ジョージア州で育った三島さんにとって「身体を動かすこと」は日常にあった。最初に始めたのはバレエ。「母の趣味で始めましたが、数カ月で限界を感じて……」と苦笑いしながら当時を振り返った。バレエの後は体操を、そして小学校3年からはテニス、サマーキャンプでは水泳に勤しんだという。「アメリカではスポーツは日常的に接するもの。1日の中で必ず身体を動かす……という感覚です。日本の部活のように、そうですね『スポーツ』と呼ぶよりも『レクリエーション』と呼んだほうがしっくりくるかもしれません」とのこと。日本とは「スポーツ」の捉え方が異なるかもしれない。

当時、三島さんが住んでいたのは、ジョージア州ピーチツリーシティ。アトランタから15キロほど南へ下った計画住宅の多い快適なエリアだ。こうした居住区は、日本に住んでいる限り想像もできないほど広大。どの家も日本では「豪邸」に分類されるほどの大きさを誇り、庭先がそのままゴルフコースとつながっているなど珍しくもない。三島さんの住んでいた区画にも「ゴルフコースが3つ4つありました。裏の散歩道はゴルフのカートコースになっていましたし、ウチにはありませんでしたが、ゴルフカートを所有しているご近所も多くて、みなさんカートで移動していました」という環境だ。日常にスポーツ、いやレクリエーションがあるのも不思議ではない。三島さんにとってスポーツは「見るものではなく、やるもの」という感覚だったそうだ。

一転、帰国後は日本の大学で4年間を過ごすことに。おそらく世界が一変したことだろう。「しかも卒業が2003年だったので就職氷河期の真っ只中で、エントリシートを50通出して返事がくるのは1社。心理学科だったので大学院に行くか行かないかも悩んでいたんですが、幸い2社から内定をいただきました」とどっぷり日本の大学生らしい生活と就職活動に身を投じたという。新人としてケンウッドに入社。その後、英語が話せるという点からカーエレクトロニクスの海外営業として北米や中南米を担当することに。しかし、実は自身の希望は広報だったこともあり4年後にDACに転職。ここでは国際事業部でインターネット広告に携わることになった。しかし、当時は社長直下の2人の部署だったこともあり、ほぼ「すべて」を手掛ける状況だったとか。

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インタビューを受ける三島英里さん 撮影:SPREAD編集部

これが三島さんのキャリアにとって転機となったとしていいだろう。初めてデジタルメディアを扱うと同時に広告のインバウンド、アウトバウンドと海外取引を手掛けることに。「そんな中、海外媒体としてFacebookのスタート期に立ち会うことになりました。日本で初めてFacebookの広告を売り始めたひとりだったと思います」とその後のキャリアへのレールが敷かれるカタチとなった。

これが縁となり2011年にFacebook(ご存知の通り、現Meta)に。まだ同サービスのユーザーが100万人にも満たない時期、「実名のSNSなんて日本では成功しない」、そう囁やかれていた頃だった。1LDKに代表の児玉太郎さん、森岡康一さん、そして三島さんの3人とマーク・ザッカーバーグが派遣したエンジニアが3人という、スタートアップならではの洗礼を受けた。

ただし「Facebookではエンジニアは宝物のような存在です。マークがアメリカ以外にエンジニアを派遣したのは実は日本が初めてなんです」と同社がいかに日本市場を重視していたかが分かるエピソードも披露してくれた。