『ラグビーワールドカップ2019日本大会(W杯)』で決勝進出を決めた南アフリカ代表。このチームを主将として引っ張るのがシヤ・コリシ選手だ。
『アパルトヘイト』とラグビー
かつて『アパルトヘイト(人種隔離政策)』を敷いていた南アフリカ。スポーツにおいても、ラグビーは裕福な白人のもの、サッカーは貧しい黒人のものであると見られていた。
アパルトヘイトにより、南アフリカは国際社会から非難と制裁を受けた。ラグビーW杯も第1回、第2回大会には参加を許されなかった。
しかしアパルトヘイトが撤廃されて迎えた第3回の南アフリカ大会では、自国開催で初出場・初優勝を果たした。このとき非白人で唯一メンバー入りしたチェスター・ウィリアムズさんは、人種の垣根を越える融和の象徴となった。
シヤ・コリシが黒人初の南アフリカ代表キャプテンに就任
多様な民族が混在する南アフリカは『レインボー・ネーション』とも呼ばれる。民主化から25年経った現在の代表は、様々なルーツの選手が集うチームになった。
このチームをまとめるキャプテンに指名されたのがコリシ選手。2018年6月に行われたイングランドとの3連戦で初めてキャプテンを務めた。
黒人選手が公式戦で南アフリカ代表のキャプテンを務めるのは史上初のことだった。
貧困に喘ぐもラグビーの才能で人生を切り拓く
コリシ選手はポート・エリザベス郊外の貧困地区で生まれた。家は小学校の授業料を払うのにも苦労するほど貧しく、母親はコリシ選手が15歳のときに亡くなった。以後は祖母に育てられる。
貧困からコリシ選手を救い出したのはラグビーの才能だった。8歳から本格的に競技を始めると、12歳のときに参加したイベントでスカウトの目に留まり、東ケープ州の名門校グレイ・ハイスクール(中学・高校)に奨学金付きでの入学を許された。
突如として現れたエリート街道には、それまで暮らしてきた世界とは大きく異なる文化が持っていた。初めは戸惑いながらも仲間に恵まれ、ラグビー選手としてメキメキと頭角を現し始める。
高校やU20の南アフリカ代表も経験。当然プロも注目するようになり、コリシ選手は家族もファンだったウエスタン・プロヴィンス(WP)と契約を交わす。
このときWPのトップチームを率いていたのは、現在南アフリカ代表を指揮するラシー・エラスムスHC(ヘッドコーチ)だった。
「コーチは僕が18歳のときに最初の契約をくれた人です」と、コリシ選手はエラスムスHCに敬意を表す。
再びW杯優勝で国を1つに
「前に南アフリカが優勝した2007年W杯は居酒屋で見ていました。家にテレビがなかったんです」
コリシ選手は準決勝のあと、南アフリカが2度目の優勝を飾った12年前を思い出しながら言った。
「あの優勝が国に何をもたらしたかは覚えています。あんなに皆がスポーツで1つになるのは見たことがない」
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