「記録よりも記憶に残る」 マット・キーオが歩んできた道

1980年代に阪神タイガースで活躍したマット・キーオが、64歳でこの世を去ったと知ったのは、5月3日のことだった。阪神時代は3年連続で2ケタ勝利を挙げ、「巨人キラー」としても知られたキーオだが、筆者にとってまず思い起こされるのはメジャーリーグ時代の姿である。

1978年、彼はオークランド・アスレチックスから唯一人オールスターに選ばれている。当時、録画ながらフジテレビ系列で全国放送されたこの試合は、筆者が生まれて初めて見たメジャーリーグのオールスター。試合内容はほとんど覚えていないが、アスレチックスの黄色(公式には金色)のビジターユニフォームと「キーオ」という名は、たちどころに記憶に刻まれた。

≪文:菊田康彦●ベースボール・ライター≫

「闘将」との出会い

キーオは当時、22歳。もともとは内野手で、1975年にはマイナーA級で123試合に出場し、打率.303、13本塁打、81打点という堂々たる成績を残すが、翌76年はAA級で2割そこそこの打率にあえぎ、投手に転向。翌77年の途中でメジャーに昇格すると、本格的に投手を始めて2年目の78年にオールスター出場と、まさにトントン拍子だった。

もっとも、その78年もオールスターまでは6勝4敗、防御率2.16だったのが、後半戦は2勝11敗、防御率4.44。翌79年は2勝17敗、防御率5.04と、いかに当時のアスレチックスが弱かったとはいえ、負けに負けた。この時期には28試合連続で先発して勝ちナシという、不名誉な記録も作っている。

転機となったのは1980年、アスレチックスの新監督として「闘将ビリー・マーティンが就任したことだ。監督として3球団を地区優勝に導き、77年には現役時代の古巣、ニューヨーク・ヤンキースに15年ぶりの“世界一”をもたらしたマーティンは、アスレチックスの若い先発投手陣に実にシンプルな「指示」を出したという。

間違ってもブルペンなんか見るなよ。見ても、誰もいないからな

当時のアスレチックスの先発投手5人は、キーオを含め全員が20代。まだ若い彼らを、マーティンはなかなか代えようとしなかった。

「右だろうが左だろうが、今投げてる奴より良いピッチャーなんかウチのブルペンにはいない。だったら代えても仕方ないだろう」

それがマーティンの哲学だった。キーオもそれまでのメジャー3年間で、先発66試合中完投は計13試合だったが、もうブルペンに頼るわけにはいかない。この年は32試合に先発して20完投。自己最多を50回以上も上回る250イニングを投げた。

何もキーオに限った話ではない。この年のアスレチックスはほぼシーズンを通して5人の投手だけでローテーションを回し、その全員が2ケタ完投&200イニング以上を記録。チーム完投数は94試合にも上った。

これはこの年のメジャーで、2位のチームの倍近い数字である。まだ“昭和”の時代の日本でも、このシーズンで最も完投が多かったのは近鉄バファローズと阪急ブレーブスの「50」。試合数の違いはあるにせよ、いかにアスレチックスの完投が多かったかがわかる。

ビリー・ボール」と呼ばれたこのマーティン野球で、前年は108敗を喫して最下位に沈んでいたアスレチックスは、4年ぶりに勝率5割を超えて2位に躍進。先発5人中4人が14勝以上を挙げ、キーオも16勝13敗、防御率2.92でア・リーグのカムバック賞に選ばれた。

ただし、この「完投政策」のツケで、「5人のエース」と呼ばれた当時のローテ投手はその後、軒並み故障に見舞われることになる。キーオ自身も1982年まで3年連続で2ケタ勝利を挙げたのち、83年の途中でヤンキースにトレードされると、翌年は故障もあってメジャーのマウンドから遠ざかる。それでも彼は生前、「ケガはビリーのせいじゃない。完投の数や使われ方が故障の原因になったとは思わない」と、89年に交通事故で他界したマーティンをかばう発言をしていたという。

記録よりも「記憶」に

1985年以降も思うような成績を残せず、年齢的にも30代に入っていたキーオに、再び転機がやってくる。それが阪神への入団だった。メジャーではいつの間にか中継ぎが主な役割となっていたが、阪神では1年目の87年から開幕投手に起用されるなど、先発ローテーションの中心的存在として活躍。内野手だった父のマーティ・キーオが南海ホークス時代に着けていた4番を背負い、ブレーキ鋭いナックルカーブを武器に来日から3年連続2ケタ勝利をマークした。

自身ももともとは内野手とあって、1988年からは2年連続でホームランを打ち、89年には10打点をたたき出すなど、バットでも貢献。だが、90年は7勝9敗に終わると阪神を自由契約となり、35歳にしてメジャー復帰を目指す。

1991年はカリフォルニア・エンゼルスの招待選手としてキャンプに臨むが復帰はかなわず、右肩を手術して翌92年に再びトライ。しかし、リリーフで登板予定だったオープン戦で、ベンチで待機していたところにファウルボールが右こめかみを直撃し、病院に搬送されて緊急手術を受ける。これが原因となり、36歳で現役を引退した。

その後は古巣のアスレチックスやエンゼルスなどで巡回コーチやフロントとして働き、スカウト当時の姿は2011年に公開された映画『マネーボール』でも描かれている(演じているのは俳優)。自身もテレビの人気リアリティ番組に前妻と共に出演する一方、飲酒運転により収監されたこともあるなど、引退後はなかなかに波乱万丈だった。

『マネーボール』の主役でもあるアスレチックスのビリー・ビーン上級副社長は、キーオの訃報に接して「マットは偉大な野球人であり、アスレチックスの誇るべき一員だった」との声明を出している。日米通算103勝128敗。現役時代を知る者なら忘れることのできない、まさに「記録よりも記憶に残る」選手だった。

≪菊田康彦 コラム≫

【コラム】映画作品に出演したメジャーリーガーを振り返る なかには俳優に転身した選手も

著者プロフィール
≪菊田康彦●ベースボール・ライター≫
地方公務員、英会話講師などを経てMLB日本語公式サイトの編集に携わった後、ライターとして独立。2010年から東京ヤクルトスワローズを取材し、コラム「燕軍戦記」の連載を続けている。
2004~08年はスカパー!MLBライブ、16〜17年はスポナビライブMLBに、コメンテーターとして出演。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』、編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』などがある。

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