【パリダカ回想録】第1回 パリダカとパジェロの蜜月

1993年香港~北京ラリーの車検の様子 (C)Yoshihiko Nakada

■パリダカの熱狂とパジェロ人気は、当時の社会現象にまで

1993年12月28日早朝、私はパリエッフェル塔を間近に臨むトロカデロ広場にいた。

未明にホテルで簡素な朝食を済ませ「冒険者たち」を見送るためにここまでやって来た。パリからアフリカセネガルの首都ダカールで折り返し、再びパリに帰るクロスカントリー・レイド1994パリ~ダカール~パリ」のスタート会場だ。

2007年、ダカール・ラリーに参戦した三菱のパジェロエボリューション (C)GettyImages

三菱自動車の営業部門にいた私がパリダカに送り込まれた理由はその年、数ヵ月前の「香港~北京ラリー」にあった。1986年に三菱自動車に入社した私は個人としてもモータースポーツを趣味とし、それは三菱自動車のモータースポーツ事業会社である株式会社ラリーアートの知るところでもあった。「一度は海外でのラリーを見ておきたい」という願望から香港へ向かった私は、事前にラリーアートから要請のあった競技車両のデザイナーのガイド役を務める傍ら、ひょんなことから青年漫画誌の企画で当選した読者ラリー特派員の面倒を見る「おせっかい」を焼くことになった。

香港から帰国してしばらく、当時のラリーアートの社長・近藤昭氏(故人)からパリダカ行きを依頼された。各種のコーディネートを担当していたマネジャーが急病で長期療養、その代役として香港同様にツアー参加者の世話役をとのことだった。海外ラリーの一端でも見ておきたいとでかけた香港での「おっせかい」が社内で評価され、思いもかけずパリダカの任務として戻って来た格好だ。

当時のクレデンシャル。いわゆる身分証明書だ (C)Yoshihiko Nakada

若い読者の中には、30年前のパリダカの熱狂、パジェロが売れまくった時代を知らない方も多いだろうと思う。

三菱自動車はパジェロ発売直後の83年にパリダカに初参戦、市販車無改造クラスで優勝。84年は市販車改造クラス優勝、85年にはポルシェを破り日本メーカーとして初めて総合優勝を成し遂げた。

しかしこの時点では日本での注目度はそれほど高くはなかった。そこでラリードライバーとしての活動を休止していた三菱自動車社員の篠塚建次郎選手を起用。すると87年に総合3位、翌88年には総合2位を獲得。折からのテレビ放映もあってパリダカとパジェロ人気に火がつき、両者は時代の寵児となっていった。

パジェロは91年にフルモデルチェンジ。この2代目パジェロが当時の「RV(レクレーショナルビークル)ブーム」を牽引。

この時代に三菱自動車の販売会社に入社し、現在は東日本三菱自動車販売・龍ヶ崎店で店長を務める大浦知己氏は「とにかくパジェロは売れました。パリダカの効果は間違いなくありましたね。お客さまの方からパリダカの話題を切り出され、すんなり商談が進むのですから」と当時を回想する。

バブルと言われた時代が去っても90年代なかばまでパジェロを筆頭に三菱車は好調を続け、「元気印の三菱」と言われた。パリダカに出場することは販売促進のみならず、商品の信頼性・耐久性を高めることにも間違いなく貢献。ここに自動車メーカーがモータースポーツに参加する意義があった。アフリカの砂漠と風がパジェロを鍛え、そして磨いた。

スタート前日のトロカデロ広場で。後ろには三菱の車両が (C)Yoshihiko Nakada

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著者プロフィール

中田由彦●広告プランナー、コピーライター

1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。

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