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セネガル代表サディオ・マネ、小さな村の貧しい少年がプロになるまでの”人生”と支えとなった”家族”の存在

セネガル代表サディオ・マネ、小さな村の貧しい少年がプロになるまでの"人生"と支えとなった"家族"の存在
(c)Getty Images

FIFAロシア・ワールドカップで日本と対戦したセネガル代表。そのセネガルの中心選手として日本戦でも得点を挙げたのがサディオ・マネ選手(リバプール)だ。

マネ選手はセネガルで1992年4月10日に生まれた26歳。フランスやオーストリアのクラブでプレーしたあと、2014年に日本代表の吉田麻也選手も所属するサウサンプトンへ移籍した。

2016年夏にはアフリカ出身選手の史上最高額を更新する移籍金3400万ポンド(約49億4000万円)でリバプールに移籍し、サッカー選手として順調にステップアップしている。

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選手としての最大の特徴はスピード。一瞬でトップギアに入る加速力で相手を置き去りにしてしまう。足下の技術にも長けドリブルが上手く、チームのため献身的に汗をかく選手でもある。

今回はそんなサディオ・マネ選手の人生や家族、自身の考えなどに迫ってみたい。

幼少期

ストリートで鍛えた幼少時代

マネ選手が生まれたのはセネガルのセディウという小さな町。人口は24,000人で現在暮らすリバプールの20分の1ほどの人数だ。実家は経済的に困窮しており、両親は彼を育てる十分な収入がなかった。

「僕の両親は僕を学校に入れるお金がなかったんだ」と話すマネ選手は、叔父さんと暮らすことになる。

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そのころから彼の心を捉えて放さないのはサッカーだった。誰かがサッカーボールを蹴っているのを見つけては参加し、毎日ストリートサッカーに明け暮れる日々が続いた。

「町にいたときは常にサッカーをしていた。誰かがプレーしてるところではどこでもね。そしてテレビでプレミアリーグの試合を見たんだ。プレミアリーグでプレーするのは僕の夢になった

多くの人に支えられて首都ダカールへ

マネ選手にプロのサッカー選手として活躍すること、セネガル代表でプレーすることを本格的に意識させたのは、2002年に行われた日韓W杯だった。セネガルはオープニングマッチで前回王者のフランスを破り、初出場ながらベスト8まで勝ち上がった。

「母国のヒーローを見て僕もそうなりたいと思った。2002年のW杯でセネガルは大騒ぎだったね。サッカーに夢中なのはその前からだったけど」

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マネ選手はW杯後に仲間と集まってサッカー大会を開き、周囲の人には町で一番上手いと評判だった。しかし、彼の両親はサッカーに興味がなく、厳格なイスラム教徒だった父親はマネ選手にも信心深い道に進んでほしいと期待していた。

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「僕の頭の中にも心にもサッカーしかないと一家が理解してくれたころ、僕は首都のダカールに行かせてほしいと頼んだ。初めのうちは反対されたけど、僕がそれを本気で望んでいて、ほかのことはありえないと分かると僕を助けてくれた

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マネ選手の両親と叔父さんは農場の作物をすべて売り払い、サッカー選手になりたいと望む息子の夢を叶える資金にした。さらに支援の手はそれだけで終わらなかった。

「最大の援助者は叔父さんだった。だけど、それがすべてではなかった。ほとんどの住人が僕のために寄付をしてくれたし、ダカールでは直接面識がない家族と一緒に暮らした。僕の家族とその家族とに共通の友人がいて、僕の世話をしてくれたんだ」

擦り切れた靴で誰よりも目立つプレーを

叔父さんと一緒に故郷の町から首都にやって来たマネ選手は、サッカークラブのトライアルを受けるため会場に向かったが、そこで「いまとなっては笑い話」なエピソードが生まれた。

「僕がトライアルを受けに行ったとき、まるで間違った場所に来た人を見るような目で僕を見る年上の男性がいたんだ。彼は僕に『テストを受けにきたの?』と尋ねた。僕が『そうだ』と答えると、彼は『そのシューズで?』と僕の靴を見て言った。僕の靴は本当にボロボロで擦り切れていた。さらに続けて彼は『そのショートパンツで?ちゃんとしたサッカー用のパンツを持ってないのか』と言った」

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会場に到着するなり男性からの詰問を受けたマネ選手だが、「僕は僕が持っている一番いいものを着てきた」と言い返して怯まなかった。

「僕はただサッカーがしたかった。自分自身を見せたかっただけなんだ。僕がピッチに立つと彼は明らかに驚いていたよ。彼は僕のところに来て『君を連れて行く。私のチームでプレーするんだ』と言った」

家族

家族にも黙っていたフランス行き

マネ選手の実力はサッカー関係者たちの目にとまり、フランスのリーグ・アンでプレーする道が開かれた。渡仏したマネ選手だが当初は家族にさえフランスに行くことを伝えていなかった。プロのサッカー選手になるという夢に懐疑的な時期があるのを知っていたためだ。彼は大がかりなドッキリを仕掛けることにした。

「こんにちは母さん。僕はフランスにいるよ」

ダカールのアカデミーでプレーしていると思っていた母親は、息子から掛かってきた電話でパニックを起こしたという。

「どのフランス?」
「ヨーロッパのフランスだよ」
「ヨーロッパってなに? あなたが住んでいるのはセネガルでしょ」
「いいや。僕はヨーロッパにいるんだ」

母親は初めのころマネ選手の言うことを信じなかったが、次第に彼の夢が叶ったことを理解した。

様々な人の支援と自らの才能で欧州フットボール界への道を切り開いたが、キャリアのスタートはケガとホームシックに悩まされ順調とは言えなかった。

「これまでとはまったく違う環境だったので、当初は本当に難しいスタートだった。でも、サッカー選手になることが夢だったし、そのためには一生懸命やるしかないので疑念は抱かなかった」

「母は僕が出ている試合を見ない」

世界的なスター選手になったマネ選手には、ピッチ外での生活にも興味を持つファンが多い。しかし、彼は一貫してプライベートなことは秘密にしており、恋人の有無など表に出ている情報はほとんどない。

インスタグラムでもサッカーの話題がほとんどで、チームを離れた投稿は従兄弟と写っている写真など極一部だ。

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そんななかで家族の話だけは頻繁にしている。あるインタビューでマネ選手は、「母は僕が出ている試合を見ないんだ」と明かした。以前の試合でマネ選手が負傷したのを見てから、誰かが息子を傷つけるシーンは見たくないと頑なに拒むという。

宗教観・考え

厳格なイスラム教徒の家に生まれアルコールは口にせず

マネ選手は厳格なイスラム教徒の家に生まれ、自身もイスラム教を信奉している。アルコールは口にせず、毎日5度のお祈りを欠かさない。

ゴールを挙げると礼拝の姿勢で神に祈りを捧げる姿が有名だ。

サッカーで得たお金で故郷にモスクを建てたことは、最高の親孝行だったかも知れない。

(c)Getty Images

夢を実現するには困難を乗り越えることが必要

天才と騒がれた選手の多くが慢心し、メディアに消費されて消えていったサッカー界で、有名になっても己を律し続けるマネ選手はリバプールのサポーターにとても人気がある。

「僕が成長するまでに競ってきた選手のなかには、とても優れた選手がたくさんいたけどプロになれなかった。僕は成功するためには困難を乗り越えることが必要だと知った。いま、僕はここにいる。何も後悔してないし、夢を実現できた」

幼いころに見た2002年大会以来16年ぶりのW杯出場権をセネガルにもたらしたマネ選手。ロシアW杯でチームを率いたのは、当時の代表でキャプテンを務めていたアリウ・シセ監督だった。

少年時代のヒーローとともに挑んだロシアW杯はわずかにフェアプレーポイントの差で決勝トーナメントへ進出できなかったが、ポーランド戦で見せたサッカーに魅了されたサッカーファンも多い。

期待の若手も増えているセネガル代表がW杯を席巻していく時代も近いかもしれない。

参考:https://lifebogger.com/sadio-mane-childhood-story-plus-untold-biography-facts/

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