【スポーツビジネスを読む】日本最大級スポーツサイトのトップ・山田学代表取締役社長 前編 MLB公式サイトをめぐる冒険

 

【スポーツビジネスを読む】日本最大級スポーツサイトのトップ・山田学代表取締役社長 前編 MLB公式サイトをめぐる冒険
スポーツナビ株式会社 代表取締役社長 CEOの山田学さん(写真:編集部)

キャリアは実にさまざまな連鎖の上に成り立っている……スポーツナビ株式会社・山田学代表取締役社長の話に耳を傾けているうちに、少々確信めいたそんな思いを抱かせられた。

そもそも鬱陶しいほどに熱弁を振るう関係者で埋め尽くされているスポーツ・ビジネス業界において、理路整然と控えめにしかし実に淡々と話す山田さんは、希少なタイプだ。

山田学(やまだ・まなぶ)

●スポーツナビ株式会社 代表取締役社長 CEO
大学卒業後、大手通信会社で約3年外資系金融企業を担当した後、スポーツビジネスの道に進むため(株)インターナショナルスポーツマーケティングに転職。初のMLB日本語公式サイト立ち上げに関わり、以降NFLJリーグクラブ等のデジタルビジネスに携わる。
その後スポーツ専門放送局J SPORTSを経て、2014年にスポーツナビ(当時ワイズ・スポーツ社)に入社し現在に至る。「スポーツxデジタル」領域でコンテンツビジネスに携わり続け、スポーツ界の発展に貢献……が現在の目標。

◆【インタビュー後編】日本のスポーツをDX化する使命

■精神的成長の根幹を揺るがした交換留学

山田社長がスポーツ事業に従事するきっかけは実に高校時代にまで遡ると考えていいだろう。

高校時代、母校にオーストラリアから留学生がやって来た。日本の教育現場ではありがちなことに、山田さんは担任の先生から、その留学生の世話係を押し付けられた。しかしこれが高校生・山田に異文化への興味を抱かせるきっかけとなる。そもそも、留学生がやって来たのは、交換留学プログラムの一環。その半年後には、母校からもひとり二人、逆に留学を募る運びとなっていた。留学生に触発され、今度は自身が交換留学生として立候補、オーストラリアを訪れることに。

その環境は「何もかも」と表現してよいほど別世界だった。まずは文化。「レディファースト」などのもその時に初めて学んだ。

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何よりも異次元だったのは、スポーツについて。高校にもかかわらず、ラグビー場は7面、サッカー場でさえ3面、すべて天然芝……スポーツが盛んではないわけがなかった。授業が終わると、みんなスポーツ……、この環境は山田さんの精神的成長の根幹を揺るがしただろう。

大学では法学部へと進学。しかし、米スポーツ誌『Sports Illustrated』や米バスケ専門誌『SLAM』などを読み込むうちに、スポーツの仕事について考え始める。また購読誌の影響もあり、アメリカへの憧憬を抱くようになったのもこの時期だ。

残念ながら…と表現してよいのだろうか。「当時はまだ『スポーツビジネス』という言葉は定着していませんでした。スポーツに従事するなら、スポーツ・メーカーへの就職を考えるか、スポーツ紙などのメディアへと進むぐらいの選択肢しかありませんでした」。

■「西武線の中で原稿を仕上げ、高田馬場でダイヤルアップ接続」

そこでスポーツ関連で思いつく企業はすべて受けた。しかし、雑誌を購読していた「スポーツファン」の域をまだまだ抜けなかった学生時代、「スポーツへの熱意はそれほど高くなかったかもしれません。そこを見抜かれたのかもしれませんね」。スポーツ関連会社への就職は叶わなかった。

そんな中97年、KDDへと就職。当時は「マルチメディア」という呼称が「旬」。現在の「デジタル・トランスフォーメーション」部署だと考えればいいだろう。まだカタチが出来上がっていない点に興味をそそられた。アメリカへの憧憬もさらに大きく頭をもたげていたため、最短で2年目にアメリカへ渡れる社内研修制度も非常に魅力的に映った。残念なことに、この制度では篩にかけられた結果、アメリカ行きは実現せず終い、自身のキャリアをさらに模索することになる。

この頃、『HOOP』というバスケ誌を毎月購読していた。そこに「スタッフ募集」の広告を発見。リクルートが運営する「ISIZE」には当時、スポーツカテゴリーが存在し、そちらにスポーツ・コンテンツを供給する株式会社インターナショナル・スポーツ・マーケティング(ISM)へと転職した。

ここでMLBを始めとするアメリカ4大スポーツのコンテンツを担当。経験者はご存知の通り「米スポーツ担当」とはやっかいなものだ。何しろ日本とは昼夜逆転。うかうかしていると寝ている間に結果が出てしまい、他メディアに遅れをとることになりかねない。

山田さんは入社後、一貫して6時起きを強いられた。当時、米スポーツデータ提供会社としてはメジャーだった「Sports Ticker」の記事を日本語にローカライズする作業から毎日が始まった。「西武線の中でパソコンを叩いて原稿を仕上げ、乗り換えの高田馬場駅で、まだダイヤルアップ接続だったので『ピーヒャラララ』し、サイトにアップしていました」と山田さんは苦笑する。

当時はアナログ電話回線からインターネットへ接続していた。年配者なら知るところだが、ダイヤルアップするとこの間抜けな接続音が鳴り響いたもの。それでも最大で56kbpsという通信速度しか出ず、現在のスマホ時代から信じられない点だ。

「営業も制作も翻訳もチェックも納品もすべて自分で担当していました」という無茶苦茶な作業形態ながら、スポーツに従事、「今から思えば楽しかったです」と山田さんは自嘲気味に微笑む。