「昭和は遠くになりにけり」、昭和の大横綱・大鵬、逝く

1961年9月28日に大鵬が柏戸を倒して優勝 (C)Getty Images

大相撲の元横綱・大鵬が19日、死去した。昭和の大横綱の業績については、各紙の担当に委ねるとし、昭和の残り3分の1程度を生きた、いち相撲ファンとして、大鵬現役当時の昭和の茶の間を振り返りながら、ご冥福を祈りたい。

物心が付き、私が初めて知った関取の名は「大鵬」である。初孫であった私は頻繁に祖父母の家に預けられた。年寄りの家で観るテレビと言ったら、大相撲と相場は決まっていた。その後「水戸黄門」もスタートしたと思うが、放送時間も遅ければ、ストーリーも判らず、父の実家では常に大相撲を観ていた。

当時、まだテレビはタテ型の上下二段に別れた木製の箱に収められており、大工だった祖父が帰宅すると、上段の観音開きが解き放たれ、テレビのスイッチが入れられた。スイッチは「押す」のではなく、小さいツマミを「引っ張る」とONになった。また、現在のようにリモコンなどは存在せず、当時のチャンネルは「ダイヤル式」であり、「ツマミ」をひねってがちゃがちゃと回した。祖父母の家ではチャンネルを「回す」必要はなく、常に「1」、つまりNHK総合を指していた。スイッチを入れると、しばし時間を要し、モノクロの画面に映るのは、大相撲だった。

季節が良い頃であれば、ちゃぶ台を兼ねた炬燵テーブルに着いた祖父が、大工姿から上半身裸になり、正座しながら「やれ、そこだ」、「うっちゃれ!」、「おー」と江戸っ子ならではの感嘆句を上げながら、テレビに声援を送っていたものである。十両の取り組みが続き、途中のNHKニュースも終わった頃になると、祖父は俄然テレビに前のめりになる。そんな中継の最後に登場するのが横綱・大鵬だった。

大鵬が活躍した時期は、1960年から1971年かと思う。同じく横綱の柏戸と並び「柏鵬時代」と称されるが残念なことに、私が相撲を理解した頃には、双方にとってすでに晩年。私の知る限り、二人の対戦では常に大鵬に軍配が上がっていた。そして、その大鵬でさえ台頭してきた玉乃島(のちの横綱・玉の海)、北の富士という若い世代に対し、孤軍奮闘の「オジサン横綱」の悲壮感を覚えた。

祖父も大鵬ファンであったのだろう。祖母と会話をしながら「もう大鵬も年だ。やっぱり、相撲は三十になっちゃしめぇよー」となどと知ったような台詞をねじり鉢巻きのまま呟いていた。孫としては自然と大鵬を応援する心持ちになった。年に一回ぐらいしか優勝しない横綱を応援するのは、子供ながらにもどかしかった(事実とやや齟齬があり、1968年には、秋場所九州場所と連覇、1969年の初場所夏場所を制覇。年に1度の優勝となるのは、1970年と71年のみである)。千秋楽の取組が終わる頃、父がスバル360で迎えにやって来て、自宅に戻った。

■「北玉時代」に立ちはだかる

1961年10月2日に大鵬が横綱昇進を果たす (C)Tamasaburou

1969年、アポロ11号月面着陸の記憶はおぼろげで、後から植え付けられた映像のような気がするが、逆に鮮明なのは「北玉時代の到来」とされた1970年の春。玉の海、北の富士がそろって新横綱として土俵にあがった場所である。1961年の九州場所で、柏戸と大鵬がそろって新横綱となり「柏鵬時代」と呼ばれたことに倣ったのだろう。

玉の海が西の正横綱、北の富士が東の正横綱。30回の優勝を誇る大鵬が、東張出横綱だった。今、振り返れば、初場所全休の雪辱に燃えていただろうことは想像に難くない。大鵬は13日目に玉の海を、14日目には北の富士を下し、新横綱にそろって黒星をつけ、先輩横綱の意地を見せ優勝した。なんだか胸がすっとした。清々しかった。「オジサンもやるもんだな」、そう思った。3場所ぶり、31回目の優勝だった。

だが、同年は初場所以来、優勝に見放された。最後の九州場所では、1敗のまま千秋楽で全勝の玉の海と対戦し、これを下すものの、優勝決定戦で力尽き、優勝を果たせず。今、年表を眺めてみると、大関に昇進して以来、優勝一回に留まった初めての年となった。「30歳を過ぎたオジサンだ。しょうがないや」との思いを持ちながら、若い玉の海に屈したのが、当時の私にはなんだか悔しかった。そして、それ以上に、祖父母が大鵬の引退を口にし始めていたのが、子供心に寂しかった。

だからこそ鮮烈だったのは、翌71年の初場所だ。先場所に引き続き、大鵬は、当時の大関・琴櫻に土をつけられた1敗を守ったまま千秋楽を迎え、またも全勝の玉の海と対戦。なんと、ここでも玉の海を下し、優勝決定戦へと持ち込む。しかし、テレビを食い入るように見つめながら、子供の頭にも先場所の苦い敗戦シーンが蘇る。祖父と私が湯呑みを握りしめ、固唾を呑んで優勝決定戦を見守る。今度は、大鵬が玉の海を寄り切り、優勝を決めた。

私はこの一番の後、蔵前国技館(そう、1984年まで両国国技館ではなかった)で座布団が飛び交ったと記憶している。それとも座布団を投げたのは、テレビの前の祖父と私だったのかもしれない(決まり手とともに手元に映像がなく、事実確認不能で恐縮)。6畳間で狂喜乱舞したことは間違いない。

これが大鵬の32回目、そして、最後の優勝だった。

後に判明するが、この優勝決定戦はふた場所続けての同じ顔合わせであり、かつ、唯一勝敗の分かれた相撲史に残る一番だった。

大鵬はこの年、次の春場所も1敗を守り13日目を終えたが、14日目の北の富士、千秋楽の玉の海に連敗。続く夏場所の5日目に、小結だった貴ノ花(初代)に負け、引退する。当時、すでに貴ノ花のファンだった私の両親は「貴ノ花が大鵬に勝った」と喜んでいたのを記憶している。その後、「角界のプリンス」と呼ばれる貴ノ花が勝って落胆したのは、祖父と孫だけだったのかしれない。

■大鵬の引退と玉の海の死

断髪式で落とされた大鵬の大銀杏 (C)Tamasaburou

もちろん、大鵬の引退は、角界のみならず、スポーツ界のビッグ・ニュースだった。後の「ミスター・プロ野球長嶋茂雄の引退と比べて遜色ない。しかし、この後、またも大きな衝撃が走る。10月、大鵬の引退相撲が行われ、大鵬最後の土俵入りを、露払いの北の富士とともに太刀持ちを務めた玉の海が、盲腸の手術の後、急逝したのだ。大鵬の引退相撲のわずか9日後のこと。当日の新聞を虫眼鏡を使い、大鵬のコメントを祖父が読んでくれた。史上最多優勝を誇た大横綱にとっても、ショックだったに違いない。子供にとっても、大鵬の引退に続き、玉の海の死は、驚愕としか表現しようがなかった。

大鵬最後の優勝以降、二横綱で優勝を奪い合っていた「北玉時代」は一瞬の輝きのうちに悲痛な終焉を迎えた。この悲劇のあと、角界は、輪島北の湖による「輪湖時代」の到来を待つことになる。昭和は五十年を迎えていた。

余談だが、我が家ではこの翌年、父が盲腸になり入院。小学生になったばかりの私は、「玉の海のような横綱が死ぬぐらいだ。親父も死んでしまうのだ」と覚悟を決めた笑い話がある。

「大相撲」と言う国技を「20世紀少年」に教えてくれたのは、間違いなく大鵬だった。そして、昭和が去って四半世紀が経った今、その大横綱の輝かしい業績を、ぜひ若い世代にも覚えていてもらいたいとオジサンは思う。

大鵬に引退を決意させたとされる初代貴ノ花が、先にこの世を去ってすでに8年。そして、日本人として横綱に昇進したのは1988年、貴ノ花の長男・三代目若乃花が最後。また、次男の二代目貴乃花が2003年に引退して以来、日本人横綱は不在のままだ。

最近、巨人戦はまったく観ない。相撲も幕内以降の中継しか眺めなくなってしまった。でも、卵焼きは食べる。そんな軽薄な相撲ファンとして、史上初めて一代親方となった大横綱に、角界の再興をなんとか見守ってもらいたいと切に願い、追悼とさせてもらう。

Yahoo!ニュース個人2013年1月21日掲載分を加筆・転載

著者プロフィール

たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー

『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨークで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。

MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。

推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。

リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、クイーンズ区住民だったこともあり、ニューヨーク・メッツ推し。

著書に『My Lost New York ~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』、『麗しきバーテンダーたち』など。


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