ウイリアムズ・レーシング……そう聞いても最近のF1ファンにはあまりピンと来ないのかもしれない。
それも無理はない。
ウイリアムズのマシンが最後にグランプリのトップチェッカーを受けたのは9年前の2012年。第5戦スペインGPでパストール・マルドナドが挙げた勝利が最後。それ以前はそのさらに8年前となる2004年最終戦ブラジルGP、ファン・パブロ・モントーヤのドライビングによる勝利だ。
2008年、2009年と中嶋一貴がステアリングを握ったものの、チームは常に中団以降に沈み、芳しい成績をあげることはなかった。これでは日本人として、ウイリアムズに声援を送っているファンも、少数派であるのは無理もない。
■エンジニアリングに情熱を燃やし、勝つことにこだわった創業者
チームの元オーナー、サー・フランク・ウイリアムズが亡くなったという訃報も、専門誌などが伝えるのみで、ニュース番組で取り上げられることもなかったようだ。だが、これにホンダは公式声明を発表。
その中で山本雅史マネージングディレクターが「フランク・ウイリアムズ氏ご逝去の報に接して、深い哀悼の意を表します。ウイリアムズ・レーシングとホンダは、フランク氏と本田宗一郎氏という、エンジニアリングに情熱を燃やし、勝つことにこだわった創業者によって成長を遂げ、1983~1987年の5年間で多くの成功をともにしました」とコメントした。ホンダの第二次黄金期の隆盛は、ウイリアムズなくして成しえなかったからだ。
マクラーレン・ホンダによる無敵の快進撃、「セナプロ対決」などの強烈なエピソードにより霞んでしまっているが、ホンダが初めてコンストラクターズ・チャンピオンとしてF1史にその名を刻んだのは1986年、「キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ」として。そして、ホンダ・エンジンが初めてドライバーズ・チャンピオンを輩出したのも、ネルソン・ピケが戴冠した87年、同チームによる。
「F1ブーム」と呼ばれる前夜の出来事だ。
87年、日本人として初めてのフルタイムF1ドライバー中嶋悟がロータス・ホンダからデビュー。当時、ロータスのエース・ドライバー、アイルトン・セナが、ウイリアムズの快進撃を目の当たりにし、ホンダ・エンジンを欲したがゆえに実現したとさえ囁かれている。
この年、グランプリ・カレンダーに初めて「定常的」日本GPが掲載され、フジテレビが地上波で全戦オンエアに切り替えた。もちろん、DAZNなどOTTソリューションもスマホも携帯電話さえ普及していない時代だ。生中継でF1を観戦できるなど、夢のような出来事だった。
■ホンダがF1に“還って来た”83年イギリスGP
1960年代に初参戦、そのホンダがF1GPに戻って来たのは1983年だった。英国製スピリットにホンダV6ターボは搭載され82年11月のシルバーストーンでシェイクダウン。翌83年7月に行われた第9戦イギリスGPでホンダはまさにF1に還って来た。
この時のドライバーは、ステファン・ヨハンソン。ヨハンソンは後にフェラーリ、マクラーレンのドライバーとして活躍する。ホンダにとってあくまでテスト参戦に過ぎなかったスピリット・ホンダはリタイアのオンパレードだったが、ヨハンソンは第12戦オランダGPで26台出走中7位完走。その才の片鱗を見せつけた。

ステファン・ヨハンソン 提供:たまさぶろ ヨハンソンから贈られたサイン入りの一葉
今では信じられないことに、ホンダはシーズン途中でスピリットに見切りをつけ、最終戦南アフリカGPで初めてウイリアムズと組み出走、ケケ・ロズベルグが6位入賞を果たし、ホンダ・エンジンのポテンシャルを示した。ウイリアムズはこの年、フォードDFVエンジンで転戦していたのが最終戦でホンダ搭載のニューマシンFW09にスイッチ、即座に戦績を挙げた。
ロズベルクはウイリアムズ・フォードで前年ドライバーズ・チャンピオンを獲得しており、つまり83年の第15戦は、ホンダが初めてチャンピオン・ナンバー「ゼッケン1」を掲げ出走したレースだった。









