【F1】日本のブーム黎明期を演出した「ウイリアムズ・ホンダ」を振り返る フランク・ウイリアムズ追悼に寄せて

ネルソン・ピケ(1986年)(C)Getty Images

■チームメート同士の「ピケマン」対決

84年はウイリアムズにとってもホンダにとっても試練の年だった。シーズンを通じエンジン・トラブルによるリタイアが頻発。16戦を2台で出走し、のべ完走したのは11回。しかし、開幕戦ではロズベルグが2位、第9戦のダラスGPで優勝を成し遂げる。ホンダは第二期において通算71勝を挙げているが、これがその記念すべき「初優勝」だった。

85年、ラインナップをロズベルク、ナイジェル・マンセルにスイッチ。この年から「キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ」へとチーム名を変更した。ホンダエンジンの熟成とともにウイリアムズはコンストラクターズ3位に。第6戦のデトロイトGPでケケが優勝すると、第14戦ヨーロッパGPではマンセルがキャリア初優勝を遂げ、第15戦南アフリカGPと連勝、最終戦のオーストラリアGPでは再びケケが表彰台の頂点に立ち、ウイリアムズ・ホンダは3連勝を飾る。

この時、新聞の広告に「ホンダF1 3連勝」という文字が踊っていたのを今でも記憶している。当時学生に過ぎなかった私にさえ、翌年から始まるホンダの黄金期を予見させるシーズン終盤だった。もちろん……と言ってはなんだが、F1はまだテレビ中継さえされていなかった時代だ。

ラインナップをネルソン・ピケとマンセルに変更して挑んだ86年、2人で16戦中9勝を挙げウイリアムズ・ホンダは初のコンストラクターズ・チャンピオンを獲得。もちろん、ドライバーズ・チャンピオンも狙える位置につけていたが「セナプロ」以前、ここでも同様にチームメート同士「ピケマン」対決となっていた。

第15戦メキシコGPを終えた時点でチャンピオンの可能性が残されていたのは、マンセル、ピケそしてマクラーレン(TAGポルシェ)のアラン・プロスト。このシーズンは16戦中各ドライバーの最高ポイントとなる11戦のみがチャンピオン獲得に向け有効ポイントとなっており、そのシステムが王者争いに複雑な影を落としていた。仮に16戦全戦でポイントを獲得したとしても、ポイントの低い4戦分はノーポイントとして換算されるシステムだ。最終戦、マンセルは3位以上で初戴冠、プロストとピケは優勝、かつマンセルの4位以下が必要という条件だった。

このオーストラリアGPではタイヤがメインファクターとなった。接触トラブルによりピットインしたプロストは、ニュータイヤにチェンジ。その後、順調に順位を上げる一方、マンセルは63周目にタイヤ・バーストでまさかのリタイア、ここで1位を走行していたピケはマンセル同様のバーストを避けるためピットイン。まさに棚ぼたでプロストが優勝をさらい、2年連続のチャンピオンを獲得するに至る。タイヤ交換後、ピケは猛追するが、4秒及ばず2位に。3位にはこの時、フェラーリに復帰していたヨハンソンが入る皮肉までついた。

■「ウイリアムズ・ホンダ」の揺るぎない功績

このチームメート同士の戦いは、フランク・ウイリアムズがシーズン前に自動車事故を起こし、戦列を離れたことによりチームの統率が取れずに勃発したとみられている。エース・ドライバー契約を締結したチャンピオン経験者のピケをホンダが後押しする一方、英国チームのウイリアムズが英国人であるマンセルを推すという亀裂が原因だったとされる。

87年も引き続き「ピケマン」対決となり、前年同様ウイリアムズ・ホンダは16戦中9勝。チャンピオン争いも2人に絞られた。しかし、1977年の富士スピードウェイ以来開催された第15戦の日本GPで、予選中にマンセルがクラッシュ。この事故によりマンセルは残りレースに出走できず、ピケが3度目の王者を獲得する結末となった。私自身、このレースを鈴鹿サーキットで目撃しているが、ゲルハルト・ベルガーが37戦ぶりにフェラーリに勝利をもたらしたほか、ロータス・ホンダを駆るセナが2位、中嶋悟が6位入賞を果たすという歴史的な一戦となった。佐藤琢磨がこのレースを現地観戦、F1ドライバーを志したのは有名なトリビアだ。

こうしてウイリアムズ・ホンダは最速チームとして86、87年と2年連続でコンストラクター部門を制し、また87年にはドライバーズ・チャンピオンを輩出したものの、この年限りで提携を解消。ピケはロータスへと移籍。ホンダ・エンジンは、マクラーレンとロータスの2チームへの供給へと切り替わり、「セナプロ」対決とホンダの黄金期を生むに至る。

ウイリアムズは、これ以降もチャンピオン・ドライバーに愛想をつかされるという状況を何度も生み出している。マンセルは92年に王者となると引退、93年のプロストも引退、96年のデイモン・ヒルも翌年には移籍、チーム体制のマネジメントに問題を抱えているとしか思えなかった。97年、ジャック・ヴィルヌーブがチャンピオン獲得以降、チームは長きにわたり無冠となり、2020年に経営を譲渡したのも無理からぬことかもしれない。94年のシーズン中、セナが事故死した原因についても諸説あり、チーム暗い影を落とし続けた。フランク・ウイリアムズの頑固さ加減がこうした数々の問題をもたらした……と見るのは簡単だ。

だが、日本においてF1が耳目を集めるようになったのは、間違いなく「ウイリアムズ・ホンダ」のおかげであり、その功績はゆるぎない。今、レッドブル・ホンダに熱烈な声援を送るF1ファンにも、ぜひ心に刻んで欲しい事実だ。

ホンダ関係者同様、ここで改めて哀悼の意を表したい。

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著者プロフィール

たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー

『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨーク大学などで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。

MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。

推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。

リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、クイーンズ区住民だったこともあり、ニューヨーク・メッツ推し。


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