【佳作】剣道の虫(作者:河上 輝久さん)

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河上、頼むから俺と一緒に剣道部へ入ってくれないか? 剣道がしたいのだが、一人では心許ないから」

中学校に入学して2週間後の昼休み、級友の大島から誘われた。だが、巷で言われているような、礼儀作法にうるさい剣道と言う代物は願いさげだった。誰からも束縛されずに、自由奔放に生きたかった。中学生時代をエンジョイしたい、というのが本音だった。

付き合いの浅い関係だったが、友人である大島の頼みをむげに断ることはできなかった。彼には悪いが、潮時を見て退部しようと心の中で決めていた。

「一年四組の河上と言います。礼儀を重要視する剣道部に惚れました。入部を決意しましたのでよろしくお願いします」

私が代弁した。大島は内弁慶で、このような時は一歩後に引いていた。その後も、彼の性格のために私の足を引っ張られる事が度々起こったが、その時は気付かなかった。

■宝物を手にした気分だった「初めての竹刀」

剣道を嗜む人々のような崇高な気持ちなど私にはなかった。大島たっての願いを聞いてのことだっただけに自分自身、白々しく感じていた。さらに、入部を申し込んだ相手が悪かった。応対した先輩は、人相の悪い上級生だった。しかも、その上級生はなぜか分からなかったが、私達を威嚇していた。

後に知る事になったが彼の名前は杉田だった。中学生としては、身長178センチと大柄で筋骨隆々の体格。160センチに満たない私は、恐怖で後悔していた。だが、後戻りはできなかった。隣の大島も顔が強張り、体が小刻みに震えていた。彼は私以上に恐怖を感じていたようだった。

「今日は竹刀も持ってきていないから見学だ。帰宅したら商店街のスポーツ店で、竹刀を購入してこい! 稽古着は体操の服装でよいぞ。稽古着を買っても良いが、いつ辞めるかもしれないからもったいない。明日から剣道を教えてやる。分かったか!」

帰宅した私は母から竹刀を購入するために貰ったお金を握りしめて、スポーツ店へ走った。玄関口に数本の竹刀が展示されていたが、どれを買うのかと迷っていると、「剣道を始めるのかね?」と店主らしい男性から言われた。そして、その人に一本の竹刀を選んでもらった私は三尺六寸の竹刀を購入して、宝物を手に入れた様な気分で、スキップを踏みながら帰宅した。その夜は何故か興奮して寝付きが悪かった。

■新入生15人でスタートも、3週間後には6人に

翌日の放課後、大島と体育館に行くと、15人程の新入生が既に先輩達から素振りを教えてもらっていた。

「お前ら、何時になったら来るつもりだったのだ!」杉田が頭から湯気をたてながら怒った。大島がトイレで時間を費やしていたために彼が用を終えるまで待っていた。言い訳はしなかったが、些細な事だと思っていた。すみませんと言って謝ったが、女々しい先輩面した奴だと心の中で思っていた。

「君は、なかなか筋がエエぞ」

キャプテンの岩井が私を褒めたが、これは彼なりに新入生をおだてただけだった。初めて竹刀を握って素振りをするのに、上手も下手もなかった。

入部当時は、新入生が15人ほどいた。だが、退部者が続出して3週間後には6人に。これは、同じ事を繰り返す単調な稽古に、誰もがウンザリしたためだった。「男だったら途中で、投げ出すような事は絶対するな」と父にきつく言われていた私は、辞めようとは思わなかったがウンザリしていた事は否めなかった。大島も私と同じ気持ちだったようだったが、彼も辞めるとは言わなかった。もしも、彼が退部するのであれば、私も同じ道を選択した。

■我を失った初めての稽古

「新入生は今日から防具を着けてみるか」

この日まで我慢した甲斐があった。私達新入生は、この言葉で生き返った。誰もが防具を着用して、稽古をしたいと願っていた。

初めて着用した防具は古く、たまらない程汗くさい匂いがした。しかし、嫌な顔は見せなかった。各々が助け合って防具を着用したが、慣れないために時間がかかった。面を被ると顔が痒くなり、この事には閉口した。

「顔が痒い時は、竹刀の鍔で面金の間から突っ込んで掻け」あの杉田が、適切なアドバイスをした。その言葉に新入生全員が面金から鍔を突っ込んでいた。「偉そうに言う杉田も時には良いことを言うな」と彼を見直したものだ。

「ヨシ! 今から二年生と稽古をする」岩井の合図で稽古が始まった。

私の順番が来た。対峙する相手は一級を所持していた上級生・平石だった。開始の合図と同時に面を痛打され、私は痛みに我を失った。小学生時代の短気な私が現れた。

目を吊り上げ、「この野郎! 舐めた真似をして!」と野獣のように豹変してしまった。その時の私は、まさに火に油を注がれた様になった。稽古ではなく喧嘩状態。竹刀を左右に振りながら、足にも襲いかかった。この私の豹変に最も驚いたのは、平石だった。必死に防御姿勢を取ったが、私の怒りは並ではなかった。

「やめろ! やめんか! 河上、やめろ!」岩井が必死に制止した。だが、狂った私の耳には届かなかった。

「この野郎! よくも殴りやがって!」

気が狂った私を新入生数人と他の上級生が、羽交い締めにしてその場は収まった。その後は、打突されると狂人化する私との稽古を誰もが嫌った。基本稽古の時は相手が緊張しているのが防具越しに見えていた。虎の尾を踏みたくはなかったのが心情だった。だが、日が経つに連れて、この性格は是正されていった。しかし時々、恐ろしい顔が防具越しから見え隠れしていた。一朝一夕には、生まれ持った性格は是正はできなかった。

■剣道の楽しみに気がついた瞬間と父の思い

二年生に進級した春、私と大島は三級を受験する事になった。

「お前……ガチガチに緊張しているな」
付き添いで来ていた岩井に笑われた。しかし、喉は異常に渇き、心臓は大きな音をたてていた。対峙する相手は、私より身長が10センチ以上も高く少し小太りだった。これ程立派な体格では、勝ち目がないと思った。今日は重たい防具を担いで帰宅すると覚悟をしていた。

審査が開始されると、「くそっ! 負けてたまるか!」と私の闘争心に火がついた。しかし、蹲踞から立ち上がった後の恐怖は尋常ではなかった。顔は強ばり、喉は更に渇きを覚えていた。更に全身の震えが始まった。

「河上! 頑張れ! 負けるな!」岩井の声が遠くで聞こえた。なぜかその言葉で、少し気持ちが落ち着いた。恐怖を払拭するために、目を瞑りイチかバチかの面技に出た。その思い切りの技が、偶然相手の面を痛打した。

これこそ怪我の功名と言うような技だった。その後は流れが私のモノになってしまった。数分か数秒かは分からなかったが、止めの合図で審査を終了した。

「良い審査だった。絶対合格しているぞ。しかし、お前は本番に強い奴だ! 俺は見直したぞ」肩を抱いて岩井は喜んでいたが、その時、剣道がこれほどに楽しいモノだとは気付かなかった。数時間後、岩井が言ったように合格していた。

「親父! 俺、三級に受かった! 本当に受かった!」体育館に設置されていた公衆電話から父に連絡した。知らせを受けた父も嬉しさのあまり、声を詰まらせていた。父は剣道へのある思い入れがあった。実兄が慶応大時代にテニス、水泳、剣道などで有名な選手だったのだ。

「兄貴のようになってくれ」と、帰宅した私に父は願いを込めて言った。しかし、海とも山とも付かない私には迷惑千万なことだった。

合格した後、何かに取り憑かれたように稽古をしていた。周りの者は驚いていたが、最も驚いたのは私自身だった。剣道を嗜むことにより、自分の性格に大きな変化が起きていた。好きではなかった剣道を、好きになってしまった。それも単なる好きではなく、剣道狂のような雰囲気になっていた。


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