■思いがけずの初段合格
三年生の夏、暑中稽古を終えた後、一級を受験することになった。だが、熱い夏は体力のない私には最大の難敵だった。対峙した相手の身長は私と同等だったが、精悍な顔をしていた。しかし、審査が開始されると、何故か容易に打突した。この時、まさかこのレベルの相手と審査を受けるとは思っても居なかった。本当に拍子抜けしてしまった。
「あのレベルで、審査を受けに来ているのか?」。審査を終えていた大島にそう言ったところ、「しかし、お前は本当に強いな」と彼は感心していた。
その時、「君、私に付いてきなさい」と役員らしい人から声を掛けられた。役員の意図するところが分からなかったが、従うしかなかった。連れて行かれたのは、隣の初段審査会場だった。
「ここでもう一度受験しなさい」
何がどうなったのかと思ったが、再び、審査が始まった緊張などなかった。先程の余韻が残っていた。その勢いで、驚くような平常心で対峙していた。数時間後には、初段に合格していた。当時はこのようなことが許されていたが、最も驚いたのは私自身だった。
三年生の秋、中学校生活最後の試合だった。これまで出場する試合は一回戦か二回戦で敗退していたが、この日の大会はこれまでとは異なっていた。チームは決勝戦まで駒を進めてしまった。そして、2勝2敗1分けで、代表戦になったが、惜しくも破れてしまった。しかし、経験した事がなかった体験に私は歓喜していた。優勝したかのような歓喜の中にいた。この素晴らしい思い出が、剣の道へと更に駆り立てた。
■「屈辱」の高校デビュー戦
満開の桜に陽射しが眩しく、匂いまでもが華やいでいる4月、高校入学と同時に迷う事なく剣道部の部室を叩いた。「初段を持っています」と言った私に、数人の先輩達が、驚くような顔をして振り返った。当時は初段を有している者は珍しかった。
翌日から稽古が始まったが、高校の稽古は激しいと思っていたが期待外れだった。だが、私は大きな勘違いをしていた。
入部早々、新入生に激しい稽古をさせると、退部してしまう危険があったのだ。そして2週間後、想像を絶する激しい稽古に一変した。当初は戸惑った顔を見せたが、耐え抜くしかなかった。25人も居た新入生は、退部者が続出して総数7人となってしまった。初段は私だけで、一級が1人と三級が1人の戦力にならない新入生の集まりになってしまった。
夏、初めての大阪府民剣道大会。私は一年生なので補欠だったが、先輩よりも腕は上だった。
「弱い奴が先輩ずらして」
朝から不満をためていた。試合に出場できないのに重たい防具を担ぐ自分が恨めしかった。悶々とした気持で、大阪市立中央体育館へと向かったが、到着すると思いがけない言葉をかけられる。
「河上、村田先輩の調子が悪いから補欠のお前が、大将で参加しろ!」
その言葉に、一瞬の内にモヤモヤしていた物が取り除かれた。青天の霹靂とはこの事だ。
だが、真実は最上級生の村田が病気で試合に出られなかったのではなかった。私に多くの経験を積ませたいという、将来を期待してのことだった。事情を知らない私はまたも歓喜の中にいた。しかし、その喜びは間もなく失望へと変わってしまった。
先輩達の活躍で三回戦まで駒を進めたが敗退した。私は全戦全敗の悲しい結果を残してしまった。対峙した相手が、最上級生のために惨敗という力のなさを嫌というほど味わった。初段と言っても新入生では、最上級生相手に勝てるわけがなかった。当然、対峙した相手は二段を取得していた。本当に悲惨な精神状態だった。
「何が初段だ! あんな無様な試合をするのであれば、二年生で十分だ。先輩の考えが理解できない」。上級生の浦西に憎々しく言われた。しかし、不甲斐ない戦いに終わった私に返す言葉がなかった。何を言われても唇を噛みしめるしかなかった。彼への憎しみは増したが、今、何もできない自分が情けなかった。
その年の秋、私は二段に昇段した。合格してからの私は、堂々とした試合態度にこそ目を見張るモノがあったが、相変わらず戦歴は芳しくなかった。また、同輩達も初段に合格していたが、今年から始めた彼等は私の敵ではなかった。
翌年の3月、新人戦が行われた。二回戦で敗退したが、昨年の夏の大会のような無様な試合内容ではなかった。半年の激しい稽古で私の剣道は大きな変化を起こしていた。村田が期待した様に、将来は大器になりそうな雰囲気を見せていた。「これで心おきなく卒業ができる」。応援に来ていた村田はそう声をかけてくれた。
二年生に進級した私は、更に進歩していた。日に日に力をつけているのが、誰の目にも分かった。先輩も同級生も私の相手にはならなくなってしまった。腕の差は歴然としていた。
■あってはならない事件
桜が散り、緑深くなったある日、剣道部発足以来あってはならない事件を起こしてしまった。
「オイ、稽古をつけてやる」
かつて先輩面した憎き浦西と稽古する事になったが、その時の力量は私の方が上だった。力量が劣っている彼は、不用意に私に面技を仕掛けた。私は待ちに待った好機を見逃さなかった。
竹刀の剣先が、浦西の喉に鋭くヒットした。カウンターに喉を突かれた浦西は、後頭部から床に落ちた。後頭部を打った浦西は、気の毒なことに意識を失った。私は仁王立ちになって、起きあがってくれば、さらに彼の喉にひと刺ししようと鬼の形相で身構えていた。
「貴様! 何をしている! 止めろ! 止めろ!」
キャプテン白井が飛んできて制止したが、矛を収めなかった。昨年の借りを返してやると身構えていた。床に落ちた浦西は、呻き声を発しながら悶えていた。同輩も浦西を良くは思っていなかったため、同情する者は居なかったのが彼には惨めだった
その後の稽古では、怒らせたら何をするかも知れないと同輩も先輩も私を警戒していた。稽古中、腫れ物に触るような態度がチラチラと見え隠れしていた。
夏の大会は、前年では辛い思い出だった。だが、この年は異なっていた。決勝まで駒を進めたが、2勝3敗で惜しくも優勝を逃がした。それでも、その頃からは府下でも有名になり、対峙する相手が顔を顰める程になっていた。誰も近付けない横柄な態度は、周りを圧倒していた。
「河上とはやりたくない」と周りから異口同音に聞こえたが、その声が私にはたまらなかった。際限なく剣道に磨きがかかった。
その後、三段にチャレンジしていたが、合格はできなかった。何故不合格なのか自分では判らなかったが、ワビ、サビなどの要素が欠如していたためである。だが、その時の私が知るはずもなかった。只、勝負に勝つ事だけを求めていた為だった。
■泡のように消えた大学進学の夢
高校へ入学してからは、剣道の虫になり、勉強には興味を全く見せなくなったが、中学校で蓄積された知識が補っていた。その知識は浅いモノであったが、高校のレベルが低かったために何とか対応できた。
剣道での名声は更に高くなり、対峙する度に観衆の目が釘付けされるようになった。三学年に進級した時、近畿四校、関東一校からの推薦入学が届いた。この推薦入学の書類に喜んだ私は、「推薦で京都の某大学へ行きたい」と父に伝えたが、驚く言葉が返ってきた。
「進学は辞めて、家の手伝いをしろ!」
父が40歳の時、私は生を受けた。高齢者になっていた父は、仕事に疲れを感じていた。現役を引退したいと言う思いが強かったようだった。
兄姉は慶応大学卒で、父一人だけ中学卒という肩書きだった。そのため、息子だけには大卒という肩書きが欲しかった。高校へ進学した時は、その思いが強くなり大学進学を希望していた。そして、稽古で疲れた体に鞭打って、深夜まで参考書を開けていた。
「この成績だったら国立は無理だが……公立だったら行ける」と担任に言われてその気になっていた。だが、その夢も体力の衰えを感じた父には重みとなり、考えが変わってしまった。そして、私の進学という夢はバブルのように消え失せた。家業のクリーニング店を継ぐことになったが、不満だらけの社会への出発だった。この時ほど、自分の人生を恨んだことはなかった。










