2001年9月11日の米同時多発テロ発生から20年が経つ。
しかし、世界はいまだに新型コロナウイルスに覆い尽くされ、特に日本は2011年3月11日に未曾有の東日本大震災を経験、その余波として福島第一原発のメルトダウンからその廃炉の見通しも立たぬまま、「復興五輪」開催と目まぐるしく展開される出来事により、20年前にアメリカで発生したテロ事件など日本人にとって記憶の彼方に消えゆく事件に過ぎないかもしれない。
それでも1990年代をニューヨークで過ごし、アトランタに移り住んだ後9月11日当日、飛行機でジョン・F・ケネディ空港に向かっていた者として、2977人が犠牲となり世界情勢を変えた大事件を毎年、回想せざるをえない。
■「NYにて行方不明」とされた米同時多発テロの追憶
その日、全日空NH10便はJFK空港に向け順調に飛行を続けていた。しかし、機長から突然アナウンスが入ると、搭乗機はデトロイトに緊急着陸した。世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター:WTC)に飛行機が2機「墜落」、そのためツインタワーが崩壊、飛行中の機体は「すべて撃ち落とす」という警告に基づく措置だった。それ以降1週間、全米の空路は完全にシャットダウンされた。
その夜をデトロイトで過ごし12日には、無理やりチャーターしたリムジンでマンハッタン入りした。タイムズスクエアに降り立つと人気もなく、上空は噴煙で覆われ、異常にきな臭く、世紀末映画の主人公にでもなったような気分だった。
予約していたホテルもパニック状態。シェラトンの表玄関は封鎖され、裏口の一箇所では厳しいセキュリティチェックが行われていた。その時点では「多発テロ」がまだまだ続く可能性を拭えなかった。ニューヨークの者はみな、悲しみに苛立ち、打ちひしがれ、混乱していた。
かつてニューヨークの自宅窓からWTCを臨んだ私自身、事件が2年ほど前に起きていたなら、WTCの足元から地下鉄に乗り込み通勤していたかもしれなかった。毎年米独立記念日にはWTCのルーフトップから打ち上げ花火を「見下ろし」、WTC内の病院にも通っていた。20年経った今でも、ビル崩壊の映像を正視することはできず、事件関連の映画なども一切観ていない……。
なにしろ20年前だ。インターネットは電話回線を経由していた時代、スマホはもちろん存在せず、電話回線のパンクにより数日間、ネット環境から隔絶されていた。その間、全世界のマイクロソフト社員の中、私ひとりだけが「NYにて行方不明」という死亡フラグで、社では大騒動になっていた。
私自身の安否が社に伝わるまでに通信環境が回復すると、逆に訃報も届くようになった。犠牲者には、友人の従兄弟、同僚の幼馴染も含まれ、日本人も24人が亡くなった。その中には経済誌のインタビューに応えて頂いた日本の銀行関係者も含まれていた。
もちろん、コロナ禍の現在と同じように、全米で不要不急のイベントはすべて打ち切られた。ニューヨークが日常を取り戻すのはしばらく不可能ではないか……誰もがそう思った。
■傷つきながらもニューヨークに帰って来たメジャーリーグ
だが、ときの大統領ジョージ・W・ブッシュはテロから2日後、国民に対し「すべての日常を取り戻すように」と声明を出した。マンハッタンもテロの影響著しいハウストン・ストリート以南は閉鎖され、被害を受けたその地区を通る地下鉄も不通のままではあったが、ミッドタウンから北では、レストランなども再開、傷ついたニューヨークは前を向いて歩き始めた。
「それなら」と私自身も、アッパーウエストの「Good Enough To Eat」まで足を運び、名物のフレンチトーストにありつき、従業員とジョークを交わしたことを覚えている。
日常への回帰を実感させたのは、やはりスポーツの力だった。テロから7日目となる9月17日、メジャーリーグが再開された。博物館などの大きな公共施設、また何万人もが集まるスタジアムなどはテロの標的とされる可能性はあっただろう。しかし、厳重な警備体制のもとではあったが、野球はアメリカに帰って来た。
ニューヨークに戻って来たのは、ナショナル・リーグのメッツが先だった。今はなき本拠地シェイ・スタジアムで21日、メッツ対アトランタ・ブレーブス戦が行われた。ブレーブスは1990年代、グレッグ・マダックス、ジョン・スモルツ、トム・グラビンを擁し投手王国を築き上げ、同じ地区のメッツにとって目の上のタンコブと言える天敵だ。