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【MotoGP】ひとつの時代の終焉 バレンティーノ・ロッシの引退

【MotoGP】ひとつの時代の終焉 バレンティーノ・ロッシの引退
引退レースとなったバレンシアGPでのバレンティーノ・ロッシ(C)Getty Images

■革命的ライディング・テクニックとダングル

ロッシはそのライディング・テクニックでも革命をもたらしたとしていいだろう。ライダーとしては180cm以上の長身であり、その長い手足の中でマシンをコントロール下に置くライディングはフレディ・スペンサー(米)を彷彿とさせた。

さらに2ストロークから4ストロークへのマシンの移行期には4スト特有のバックトルクに悩まされるライダーも散見されたが、ロッシはむしろこれに起因するリア・スライドを積極的に活用。80年代から主流となったリアステアリングに加え、前後輪がスライドしたままでも、ステアリングさせるかのようなスタイルを確立、その安定感は際立っていた。

それはまるで氷上を滑りながら、バンクさせたマシンを疾走させるかのように私の目には映ったものだ。

コーナー進入時に内足を上げるライディング(いわゆる「ダングル」)を取り入れたのもロッシだ。ロッシは、「前輪への荷重をプラスする」とその感覚を解説していた。だが、理論上その荷重が生まれるとは私には考えられず、今もって謎のままだ。

もっとも鈴鹿8時間耐久にも参戦していた知人ライダーとこの議論を繰り広げた際、彼はむしろ、この点を「理解できる」と答えていただけに、私のようなドン亀ライダーの理解を越えた領域だったのかもしれない。

ただし、この「流行り」のスタイルのライダーが減少傾向にある点を踏まえると、大きなアドバンテージになりえなかった証左ではないかとも考える。「マイケル・ジョーダンがダブル・クラッチを決める際に舌を出すようなもので、単なる癖に過ぎない」と明言する者までいる。

バレンティーノ・ロッシ(2004年、後方はセテ・ジベルナウ)(C)Getty Images

「永遠に続く」と思われたロッシ時代も、その終焉に向けた転機がやって来た

ひとつは、ホンダからヤマハへ移籍を経ても王者であり続けたロッシが、ドゥカティを選択したこと。スポーツに「タラレバ」がないのは定石ながら、これがロッシのライダー人生を変えてしまった。

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F1の「セナプロ」に似た構図となり、2010 年に同僚のホルヘ・ロレンソ(西)との王者争いで敗れると、そのままこの移籍を決めてしまった。ドゥカティはこの頃、グランプリのトップ・マシンではなかった。ロッシをして「フロントのグリップが把握できない」と言わしめるマシンで、ロッシは2年にもわたって、限界値よりも下で走るライディングに押しやられ、あのロッシが優勝どころか、たった2度の表彰台をキープするにとどまった。

ロッシのエンジニア、アレックス・ブリッグスさえ「ロッシはレースを辞めてしまうかも」と思ったほどだった。そしてこれ以降、ロッシにかつてのように周囲を凌駕する輝きは戻って来なかった。

また、ヤマハに復帰した2013年オフ、500ccにステップアップして以来、「親父」のような存在だったチーフ・エンジニアのジェレミー・バージェスと袂を分けた。この決断により王者復帰への道が閉ざされたとしていいだろう。

バージェスの助言があれば、14年から3年連続でランキング2位に甘んじたうちのいずれかは、再度王者に返り咲いていたはず……というのが私の見方だ。実際、ブリッグスは「2015年にバージェスがいたら、(ロッシは)チャンピオンになっていたと思う」と公言している。

17歳でGPデビュー。優勝を飾るたびに、いたずらのようにウイリーを繰り返してロッシもすでに30代半ばとなり、ライダーとしても、そのプライムタイムを終えようとしていた。

結果的には16年のランキング2位を最後にチャンピオン争いに加わることはなく、17年第8戦オランダGPでポディウムの頂点に経ったのが、ロッシにとって最後の優勝となった。