内田篤人の背番号は2!過去に背負った背番号の変遷についても解説

2018シーズンから鹿島アントラーズに復帰した内田篤人選手。代名詞は背番号2だ。

内田選手は、過去に10番や20番、22番、6番も着けていたこともある。今回は背番号の変遷を説明しよう。

高校時代の背番号は10

内田選手は静岡県のサッカーの強豪で知られる清水東高校出身だ。今でこそ日本を代表するサイドバックとなった内田選手だが高校時代は無名の選手。

同年代の日本代表小林悠選手やFC東京の太田宏介選手が選手権全国大会で活躍する中、内田選手は全国大会に出場できなかった。

それでも清水東高校で背番号10を背負い、中盤を激しく駆け回る内田選手は多くのJクラブのスカウトの目に留まる。内田選手は鹿島アントラーズを入を選択した。

鹿島アントラーズ入団時の背番号は20

鹿島アントラーズ入団時、内田選手に用意されたのは背番号「20」。多くの若手選手がそうであるように、内田選手も大きな数字の背番号を背負った。

この年、高卒ルーキーとしてはクラブ初となるリーグ戦開幕先発出場を成し遂げ、当時の高卒ルーキー史上最年少得点も記録する等、まさに順調なプロ生活をスタートさせた。

名良橋晃から背番号2を引き継ぐ

翌2007年には元日本代表サイドバックである名良橋晃氏から指名され、背番号2を引き継ぐことになる。鹿島アントラーズの背番号2は元ブラジル代表の名サイドバックであるジョルジーニョ氏や名良橋氏が背負った伝統ある背番号だ。

偉大な2名から受け継ぐ形で背負う事になった背番号2。内田選手は2008年に自身初のJリーグベストイレブンに選出され、2009年には鹿島の史上初のJリーグ3連覇達成に貢献する等、偉大な2名に恥じない、十分な結果を残した。

(c)Getty Images

内田選手は「2」という数字に愛着がある。飲食店の番号つき下駄箱では2番を選び、公共トイレを使用する際にも右から2番を使うほどのこだわりだ。

ブンデスリーガに移籍し、シャルケで背番号22を着用

2010年に移籍金推定1億5,000万円でドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04へ3年契約で完全移籍した内田選手が背負う事になった背番号は「22」。愛着のある2は入団時に空いていなかった。

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内田選手はシャルケでも右サイドバックのレギュラーを獲得し、チャンピオンズリーグでベスト4進出に貢献する等、目覚ましい活躍を見せる。

2012年にはブンデスリーガベストイレブンに選出されるなど活躍を続けるが2015年に右膝を損傷。戦線を離脱し2015-16シーズンは公式戦に1試合も出場できなかった。

2017年に出場機会を求めてドイツ2部1.FCウニオン・ベルリンへ移籍するまで内田選手は22を背負う事になる。

ウニオンでは愛着のある2番を着用

ウニオン・ベルリンに活躍の場を移した内田選手は背番号2を選択。内田選手はクラブ公式サイトを通じ、「この移籍が早く決まってくれて嬉しいです」と語るなど新天地での活躍が期待された。

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しかし、左太ももに肉離れを負い戦線を離脱。ウニオン・ベルリンでのリーグ戦出場は2試合のみとなった。

鹿島復帰後も背番号2を選択

2018シーズンから内田選手は日本に復帰。選んだチームは鹿島アントラーズだった。背番号も再び2に決定。

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新体制発表会では2番に対して「名良橋さんから頂いた番号なので下手なプレーはできない。ジョルジーニョも付けていた」と決意をあらたにしている。

鹿島の「2」は空白の7年半を過ごした

内田選手は鹿島への移籍について「シャルケ移籍時にいつか戻りたいと思ったのが鹿島。強化責任者のマンさんのがいるから帰ってきた」と語っている。

「マンさん」とは、鹿島の鈴木満常務取締役のこと。内田選手がシャルケに移籍し、鹿島を離れた後も常に声をかけてきた。

鈴木氏が内田選手に渡したユニフォームは移籍前と同じ背番号2。いつか来る鹿島復帰のため、7年半空き番号にしていたという。

日本代表では背番号6を着用

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内田選手は、日本代表ではしばらく背番号2ではなく背番号6をつけていた。その理由は浦和レッズの阿部勇樹選手が背番号2番を着けていたため。自著『僕は自分が見たことしか信じない』(幻冬舎)で明かしている。

伊野波雅彦から背番号2を譲り受ける

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しかし、内田選手は「キリンチャレンジカップ2013」の日本対ウルグアイ戦で背番号を2番へ変更。それまで背番号2を着用していた伊野波雅彦選手から譲り受ける形となった。

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