バイク乗り以外で、この雑誌をご存知の方は業界関係者しかないだろう。
『RIDING SPORT』(以下、RS誌)は純粋にバイクレースを追いかける雑誌だ。今の若者が聞いたなら「なんだそりゃ?」と思いそうだが、昭和40年男にとって1980年代の「バイクブーム」は、誰もが通るワインディングロード……と表現しても過言ではなかった。
■当時はバイク人気の絶頂、「レース専門誌」に心をくすぐられる男たち

モトクロスの佐藤健二が記念すべき創刊号の表紙に
創刊は1982年12月。この年、250cc以上のオートバイ新車販売台数は約13万8000台、前年には統計上初めて10万台を越えたばかり。125から250ccのカテゴリーでは初めて10万台を越え、約13万台を記録。統計上前者の最盛期は1985年の14万3000台、後者は1988年の20万5000台だった。2020年には前者6万7000台、後者7万4000台とブーム時の約半分。それでも2010年頃の双方合計で10万台を切ったどん底から復調して来た。
バイク乗りにとって、その頂点言えばレース。よってバイクのカタログ誌でもなく、族向けのパーツカタログでもない、「レース専門誌」という切り口は、昭和40年男の心をくすぐった。
この時代、バイク免許取得は16歳からだったが、多くの高校では校則で免許取得が禁じられていたこともあり、かえってバイクは憧れの的となった。中型バイクに手は届かなくても、原付ならなんとか手に入る価格。50cc未満は、まだヘルメットなしで許された。
「半クラ」もよく理解しないままヤマハRZ50などを借り、サングラス姿で街中を走り抜けると、気分はすっかり「ハマショー」だった。そんな牧歌的な時代にもたらされたレース雑誌は、ページを捲るごとに、夢の世界の連続だった。
今はなき「世界GP」(現在のMotoGP)350ccクラスにおいて片山敬済が「日本人」として1977年に初めて年間王者に輝き、そのニュースはほぼひと月遅れぐらいの感覚で首都近郊のしがないティーンにも届くようになった。
その最高峰である500ccクラスにおいて1975年にジャコモ・アゴスティーニ(イタリア)がヤマハで世界王者となって以来、バリー・シーン(イギリス)がスズキを駆り76、77年と2年連続チャンピオン、78年からはアメリカ人のケニー・ロバーツがヤマハで3連覇を成し遂げるなど、日本メーカーが頂点を独占して来た点も大きかっただろう。このため私の「ヤマハ党」は15歳の時点で決したほどだ。
■グラビアにはレジェンド・金谷秀夫の引退記事
そんな時代、創刊号の表紙はモトクロスの佐藤健二。21世紀に入っても日本モトクロス界の重鎮として活躍されていたが2015年12月4日、道路を横断中に事故死された。レーサーが公道で命を落とす事故は、阿部典史の例を出すまでもなく無念すぎ、得も言われぬ心持ちとなる。
レース雑誌でありながら創刊号の表紙がモトクロスという点を考えると、編集部はオフ車好きの集まりだったと推察される。4輪レース誌の創刊号表紙がフォーミュラでもGTでも耐久でもなく、ラリーレイドであったと考えれば、推して知るべし。それと同じだろう。

広告欄には、2年連続で500ccクラスの年間王者を輩出したスズキが
表2はスズキの見開き広告。スズキは1981年、82年ともに世界ロードレースいわゆる世界GPにおいて、マルコ・ルッキネリ、フランコ・ウンチーニと2年連続で500ccクラスの年間王者を輩出しており「当然」の広告……と思いきや、「RS誌」とスズキには蜜月があったのかもしれない……と勝手に推察。それと言うのも、自宅にはその時々でRS誌が数冊残されているのだが、そのどれもが表2見開きがスズキの広告なのだ。そんな広告主がついていると、営業的には大変助かるに違いない。
目次前にグラビアページを配しており、そのトップを金谷秀夫の引退が飾っている。スポーツに「もし」が存在しないのは鉄則。しかし、今の世代が知らぬであろう彼の実績を見れば、その夢を思い描きたくなる。

グラビアページには、世界デビューで優勝を飾った日本人ライダー・金谷秀夫の引退が飾っている
本記事中にも記載されているが、金谷は1945年2月3日神戸出身。17歳で初めてレースに参戦すると71年には全日本王者に。72年にヤマハから世界GPに参戦すると、250ccクラスのデビュー戦で優勝。世界デビューで優勝を飾った日本人ライダーは金谷だけだろう。この年はスポットとは言え、350cc、500ccとともにトリプル出走。この優勝と合わせ4度表彰台に立っている。
73年も250ccと500ccとW参戦し、それぞれ3戦連続2位、初戦から3位と2位と全戦表彰台に立つが、同僚だったヤーノ・サーリネン(フィンランド)の事故死によりヤマハが撤退。自身も帰国した。
74年を事故で棒に振るが75年には350ccと500ccで世界参戦。それぞれ3位と優勝、後者では第5戦まで2位、優勝、4位、3位でランキング首位に立った。6戦以降はマシン開発のために日本に帰国。その後、一度も出走しないまま同年をランキング3位で終えた。グランプリの最高峰クラスで、日本人として初優勝したのは金谷であり、暫定的にもランキング1位に立ったライダーも金谷をおいて他にない。もしヤマハが金谷を帰国させなければ、片山敬済の前に日本人王者が誕生していたかもしれない。日本人としては未だ誰も制したことがない最高峰クラスで、46年前に、だ。500ccクラスでの優勝は、あの平忠彦でさえ成し遂げていないのだ。同ランキング3位という結果も、フル参戦した1999年の岡田忠之を待たなければならなかった。
金谷は本稿でも「自分の限界と、そしてマシンの限界と全力を尽くして戦って来た」。そして「もうどこのサーキットでも走りたくない」とし引退に至った。以降、TEAM KANAYAを率い後身をサポートして来たが2013年に鬼籍に入られた。日本メディアにおいて、このニュースの記述も少ないが、イタリアのメディアは「Il Motomondiale piange Kanaya」(MotoGP、金谷を偲ぶ)とその死を悼んだ。
■ライダーの妻や子供時代の写真など、ユニークなコーナーも

王者の腕を持ってしても優勝を果たすことができず撤退した悲運のマシン・カワサキKR500
次にモノクログラビアで目を引くのは、カワサキKR500について。当時、カワサキのエースだったコーク・バリントンを乗せ、500ccクラスに殴り込みを図った最上位モデルながら王者の腕を持ってしても優勝を果たすことができず撤退した悲運のマシンである。グランプリ史上において派手なスポットを浴びることなく消えて行ったマシンは数多い。現在のMotoGPではそんなカワサキがカムバックしている点は、感慨深い。
35ページに至ってやっと目次が登場するが、この時代では珍しくわずか半分ページを割いたのみ。ロードレースのトピックスが多いにもかかわらず、ここでもイメージカットはオフロード車であり、思わず苦笑いする。

目次は35ページに至ってやっと登場

1992年10月16、17日に行われたモトクロス日本グランプリ大会の詳報
モノクロの記事も、「世界に鈴鹿がやって来た」とモトクロス日本グランプリ大会の詳報、その後もホンダCR125R、ヤマハYZ125、スズキRM125、カワサキKX125のオフ車比較インプレッションが特集されている。

変わり種として国際A級ライダーの妻たちを集めた座談会企画も

日本のトップライダーたちの幼少期の写真など、ユニークな企画も見受けられた
変わり種は、「家庭のチーフメカニック 奥様たちのフリートーキング」と国際A級ライダーの妻たちを集めた座談会を掲載。これなど、まさにライダーの日常の顔を想像できるだけに、もう少々誌面を割いても興味深かったのではないだろうか。また「突然ですが、ボクは誰でしょう?」と日本を代表するライダーたちの子供時代の写真を掲載。せっかくここまで写真を集めたのだから、これもまた手厚い特集にしても、読者の目を惹いただろう。
82ページの次号予告+奥付には創刊への言葉も掲載されるが、ここでもイメージカットはオフロード車。編集部はよほどオフ車に偏ったメンバーであったに違いない。

次回予告のイメージカットもオフロード車
その対向の広告は、1983年にキング・ケニーとの激闘を制し、初めて世界チャンピオンに輝くフレディ・スペンサー(アメリカ)のレプリカヘル。この広告を眺めてもわかる通り王者獲得前から「FAST FREDDIE」の異名を持っていた。85年の250ccと500ccクラスのWタイトル獲得を思い起こせば、それも納得。それにしてもアライヘルメットが「株式会社新井広武」という社名だった過去などとっくに忘れていた……。

“世界のArai”は当時、株式会社新井広武だった
そして、よもやよもや……巻末の最終特集は82年、まさに創刊の年に世界最高峰クラスでチャンピオンに輝いたフランコ・ウンチーニのインタビュー。カラー3ページに渡って掲載されている。4輪レース誌なら、その年のF1王者のインタビューが巻頭ではなく、巻末に申し訳程度にあると想像すれば、これがいかに異常な台割か理解できるだろう。入稿スケジュールを考えても、中とじの雑誌は、最初の10ページぐらいと残りの10ページは同じ紙上に刷られ、これを念頭に入れると「締め切りギリギリだった」から巻末に回された……わけではないだろう。やはり、本誌はよほどのオフロード好きによって創刊されたと見るべきだ。本来であれば、創刊号の巻頭を飾るべきインタビューである。少し検索したところ、ウンチーニさんは現在もご健在、何よりである。

チャンピオンに輝いたフランコ・ウンチーニのインタビューは、まさかの巻末の最終特集に
RS誌の版元「株式会社武集書房」は1980年に東京・福生市で誕生。82年に恵比寿に移転し本誌を創刊。創刊時、編集室「グラフィティ」とのクレジットもある。92年に株式会社ニューズ出版へと名称変更した後に、2009年1月に株式三栄書房と合併、現在「三栄」となった。また同ブランドのデジタルサイトは運営が異なり、京都のビジネスラリアート株式会社が手掛けている。
こうした幾多の変遷を経つつ、雑誌そのものが健在である事実に、素直に称賛を送りたい。数々の雑誌が消えて行く21世紀において、雑誌存続こそが存在意義。今後もバイクの、モータースポーツのさらなる発展に向け、末永く発信をお願いしたい。
鉄の馬に跨らなくなり早15年以上が経つ私が頼むのも、いかがかと思うものの……。
著者プロフィール
たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー
『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨークで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。
MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。
推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。
リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、クイーンズ区住民だったこともあり、ニューヨーク・メッツ推し。
著書に『My Lost New York ~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』、『麗しきバーテンダーたち』など。