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【パラ陸上】「世界一不幸な自分」からの復活、足を失ったからこそ真摯に向き合える競技生活 井谷俊介【前編】

【パラ陸上】「世界一不幸な自分」からの復活、足を失ったからこそ真摯に向き合える競技生活 井谷俊介【前編】
パリ・パラリンピックを目指す井谷俊介

「今日、足を失う」「今日、手を失う」「今日、命を落とす」と考えながら一日を過ごす人はいないだろう。しかし、実際の人生は異なる。ある日突然足を失い、手を失い、命さえも落とすこともある。 パラ陸上選手・井谷俊介も、まさか自分が突然足を失うなどと考えたことはなかった一人だ。

三重県度会郡大紀町出身の井谷は、小さな頃から快活なスポーツ少年だった。

◆国枝慎吾の後継者・小田凱人 全豪オープン準優勝と「最年少記録を作り続ける運命」

「小さな漁村と言えるぐらいの田舎の町でしたから、都会の子とは違ってショッピングモールへ行ったり、ゲームをしたりというのはなく、遊びといったら山に登ったり、海で泳いだり、自然の中で身体を動かすことが普通でした。周りのみんなもそうですが、とにかく身体を動かして遊ぶのが大好きだったんです。特に走ることが大好きでした」。そんな環境で育った井谷は小学生の時から剣道とソフトボール、中学から野球など様々なスポーツに親しんだ。中でも幼少期にもっとも惹かれたのがモータースポーツだった。

井谷俊介(いたに・しゅんすけ)

パラ陸上選手
1995年4月2日三重県出身。SMBC日興証券株式会社所属。競技種目:100m・200m。競技クラス:T64 (膝から下の切断)。20歳で交通事故により右脚の膝から下を切断し義足になる。その後、義足で走る楽しさを知りパラリンピックを目指すように。レーサーの脇阪寿一氏、仲田健トレーナーに出会い本格的に競技を開始。2018年には競技は始めわずか10カ月でアジア大会を優勝。2019年 世界パラ陸上では日本人初の100m決勝に進出。200mでも同じく決勝へ。24年のパリ・パラリンピックを目指す。

■あこがれはミハエル・シューマッハー

シュッマハーへの憧れがパラ・アスリートへのスタート

小学校入学前、三重県の鈴鹿サーキットで初めてF1を生で観戦した。それ以来、すっかりF1に魅了され、小学一年生の時には「レーサーになりたい」と夢を描いた。当時は、5連覇を含めた7度の王者戴冠を果たした「皇帝」ミハエル・シューマッハーの全盛期。

「とにかくシューマッハーの速さに憧れました。鈴鹿サーキットで何時間も出待ちをしたりして。結局、会うことはできませんでしたけど、僕のスーパースターですね」。そうした憧れの強さが高じ、小学校5年生の頃には鈴鹿サーキットでカートデビューを果たすまでに。

「カートの運転はものすごくワクワクしました。ゴーカートのように安定したレール内を走るわけでもなく、自転車のような人力走行でもない。サーキット上を、本物のエンジンを背負って自分の思い通りに操る。楽しかったです」と当時を振り返る。だが、レースに本格参戦するとなると金銭的な問題は常につきまとう。特に裕福な家庭でもなかったのでモータースポーツはやむを得ず諦めた。高校では、その熱量を野球に注いだ。

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高校卒業後、大学に進学。クルマの免許、バイクの免許を取得したことで昔の憧れが頭をもたげていた。この年齢からプロレーサーを目指すのが難しいことはわかっている。それでもやはり乗り物を操る楽しさは忘れ難かった。大学も特に工学系ではなかったが、メカニックやエンジニア、またはサーキットの職員になることも考えた。少しでも知識が身につけばと、愛知県のカート場でアルバイトを始めた。しかしカートがある環境のせいか、憧れは一層つのるばかりだ。そこで、ガソリンスタンドでのアルバイトも掛け持ちし資金を捻出。ついにカートでのレース参戦にこぎつけた。

「ついにカートでレースに参戦する夢が叶う」。しかし、 ある日の アルバイトの帰路、オートバイを運転していた際に事故に巻き込まれた。粉砕骨折により、右膝より下部を切断。レース・デビューの2週間前だった。「世界中どこを探しても自分より辛い思いをしている人はいない」、そう思うほど落ち込んだ。

■見舞いに訪れた友人たちから笑顔を奪っていたのは、自分だった

足を切断したのは事故から10日後。その間は、集中治療室にただ横たわり「切断」の日を待つだけの時間が続いた。外部とのコンタクトは母と15分の面会が1日に3回のみ。もちろん孤独に苛まれた。1日が過ぎて行くのがとにかく長く感じた。「なぜあの時、即死してしまわなかったのか」とさえ思った。

だが、その心の持ちようは足の切断後、入院中からすでに徐々に変わっていった。「母ももちろんそうでしたが、心配して見舞いに来てくれた友人がことごとく元気をなくして帰って行く。『バイクでこけて足の骨を折った』ぐらいの感覚で見舞いに来てくれるものの、足を切断したことを知り『また、来るわ』と消え入りそうな声で帰って行く。そこで我に返りました。自分自身が世界で一番辛いかもしれないけど、その辛さをみんなに無理やり押し付け、強制しているのは自分。みんなの笑顔を奪っているのは自分のせい。みんなの笑顔をどう取り戻したらいいのか考えた時、まずは自分自身が辛さや弱い姿を見せてはいけない……そう考えるようになりました」。

「世界一不幸な自分」からの復活を果たした井谷

足を切断し2日後には、考えを改めた。それでも「最初の頃は自分でもしんどくて、みんなの前では元気なふり、気にしないふり、平気なふりをしていた。みんなが帰ってしまうと落ち込む自分もいました」と言う。

だがその入院中、頻繁に見舞いに足を運んでくれた幼馴染の友人が、やはりオートバイの事故で命を落とすというショッキングな出来事があった。「即死していればよかった」とさえ考えた井谷に、その幼馴染はこう言った。お前は生きていてくれてよかった、と。 「当時はそんな考え方はできなかったんですが、今の僕自身は足がなくなってよかったとさえ思っています。それまでの自分は、自分がよかったらいい、自分が楽しければいい、自分が楽できたらいい、本当にすごい自己中心的な自分でした。それが足を失ってからは、やはり周りのために動く、そんな存在意義に気づくことができたんです。考え方を変えてくれる大きな要因。こういう運命に決められていてよかったと思います」。

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そして、それまでの漠然とした「レーサーになりたい」という思いに、強い意志が芽生えた。

「今思えば(足の切断は)よかったのかなと思いますね。レーサーになりたいとぼんやりと思っていた当時よりも、足を失って義足になってからのほうが、プロレーサーへの思いが強くなりました。みんながもっと喜んでくれたり笑顔になったり、みんなの笑顔を取り戻すために、レーサーになるという夢を叶える。そう思えるようになりました」。

主治医にも、義足を用意してくれた技師にも「もうレースはできない」と現実を突きつけられた。なにしろアクセルが踏めない。日常的に乗用するクルマも、アクセルを踏むタイプではなく手動で運転するタイプのものを勧められた。義足でのクルマの運転は、それほどまでに難易度が高いものとされた。そうした逆境でも、「やってみないとわからない」と井谷は前向きだった。

「諦めなきゃいけないのか、と思う自分もいましたが、やってみないとわからない、とも思いました。できないならできないで、どうにかできるように考えればいいんだ、と」。退院したその日に働いていたサーキットに足を運び、カートに乗り込んだ。「乗ってみて最初はすごく難しかったですけど、乗っているうちに、これならいける!と確信しました」。

こうしてレース活動を再開。他のチームからは「義足でレースするなんて無理」「障害者なのに」と言われることもあった。当時はもちろん「傷ついた」と振り返るものの、「そういう心ない言葉にも負けたくなかった」という。「世界で活躍するレーサーになる、みんなを笑顔にするという目標があったので、常に負けずに挑戦できました」。

そのうち結果もついて来るようになり、その年のうちに優勝を経験。表彰台にも立つようになった。チームのテストを受けるスカラーシップも見えてきた。すでに大学4年になっていたが、就職活動もせずレース活動に心骨を砕いていた。

だが、ここでも活動資金がネックになった。アルバイトを掛け持ちしたもののそれでも足りず、給料を前借りしたところで出費はかさむばかりだった。アルバイト代は借金を減らすためだけに消えていく。しかしこれ以上アルバイトを増やすと、今度は練習時間が減ってしまう。練習時間が減れば成績はついて来ない。悪循環を絶つため、自らスポンサーを募るための企画書を作成。資金調達を試みるようになった。

■“夢を応援してくれた” スーパーGT王者・脇阪寿一さんとの出会い

スーパーGT王者・脇阪寿一との出会いが井谷を変えた

企画書には「義足のレーサーになりたい」という、いつもの夢とは別に、「パラリンピックに出場したい」という夢も書いた。「陸上にも挑戦したい気持ちはもともと抱いていましたが、レースだけでもいっぱいいっぱいでしたし、さらに競技用義足はとても高価なもので費用捻出もままならなかったんです」。そうした状況の中で、この企画書がたまたま出会ったカーレーシング用品のチューニング・ショップ店の社長の目にとまり、井谷の夢を買ってくれたことがきっかけでおおきな転機が訪れた。

ある日、社長から「レースを手伝ってくれ」と声をかけられたのでサーキットに向かうと、今度は「会わせたい人がいる」とある人を紹介された。その人こそが脇阪寿一(わきさか・じゅんいち)だった。

脇阪といえば日本のモータースポーツ界において知らない人はいないと言われるレジェンド的存在のドライバー。現在は引退しレーシングチームの監督を務めているが、2002、06年、09年にはGTレースの最高峰でスーパーGT最上位クラス・GT500でも年間王者に輝いている。井谷からすれば、「雲の上のような」存在だった。そんな脇阪さんが「(競技用の)義足が買えなくて困っているんだったら、作って来なさい。俺が買ってやる」と井谷にオファーをくれたのだった。

「企画書を見てくださるということでしたが『おそらく、この場限りなんだろう』と思っていました。相手にされないだろうと。それが『夢を応援する』とおっしゃっていただき、それから一年ほど脇阪さんに付いて勉強して回ることに。脇阪さんから学んだのは、『アスリートである前に、まずは人としてどうあるべきか』でした。大学を卒業した後、所属先も見つけてくれた。練習をするための場所はもちろん、トレーナーをつけてくれるなどの世話までしてくれ、陸上競技のための環境をすべて整えてくれたのは脇阪さんでした」。

パラアスリートとしての陸上競技は、生身の足と義足の足では反発係数が異なるため、まずは両足で「バランスを取って走る」ことからスタートする。義足で走る感覚は、筋トレよりも何よりも、とにかく走り込んで身につけるしかないのだという。初めて競技用の義足を着用し挑んだ際は、すぐに転んでしまうほどの難易度だった。

「走るのはもともと好きだったので、やるなら100mをやりたい!と思っていました。当時義足をはいて100m走ったことなんてなかった。それでも100mでパラリンピックを目指したい、という思いは変わらなかったです」

義足で走ることに慣れるために、子どもの頃のようにただひたすら走って感覚を身につけていったという。徐々に走れるようになっていき、大会に出場する機会も増えていった。

◆【後編】「世界一不幸な自分」からの復活、足を失ったからこそ真摯に向き合える競技生活 井谷俊介

◆国枝慎吾、引退後は競技の普及に意欲も……柳井正会長はビジネス立ち上げに向け熱烈アプローチ「経営者の才能ある」

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