【コラム】「バスケの神様」マイケル・ジョーダンについてまわるNBA9連覇の夢

マイケル・ジョーダンを知らない者はいない

長らくそう思い込んでいたが、Bリーグの若手プレーヤーの年齢でも、物心ついたのはジョーダンの二度目の引退以降。マイケル・ジョーダンの偉業について現在は、YouTubeやDVDなどで振り返ることができるので、興味がある方はぜひ目にして欲しいもの。

今は亡きコービー・ブライアントをはじめ「ジョーダン2世」と見込まれた選手は少なくはなかった。しかし、バスケ界にジョーダンほどの衝撃を残したプレーヤーはいない。

スポーツ界のアイコンとしてアメリカでは、ベーブ・ルースモハメッド・アリマイケル・ジョーダンと3者が並び称されるほど。「バスケの神様」マイケル・ジョーダンを上回る記録は少なくない。しかし、その記憶を上回るプレーヤーは、これから誕生するのか「わからない」としか答えられない。

バスケ・ファンとしては非常に幸運なことに、ジョーダンの全盛期をこの目にして来た。ノースカロライナ大学時代のジョーダンが「あのシュート」を沈めたNCAA優勝決定戦は1982年の出来事。

対戦相手は、パトリック・ユーイング擁するジョージタウン大学。ジョーダン自身その優勝決定戦において「(単なる)マイクが、マイケル・ジョーダンになった瞬間だった」と語った試合だ。筆者が高校2年になる年だった。

≪文:たまさぶろ●スポーツ・プロデューサー、エッセイスト、BAR評論家≫

「バスケの神様」 ジョーダンが魅せてきた日々

(c)Getty Images

伝説のボストン・セルティクス以来初めてとなる3連覇をシカゴ・ブルズが達成したのは1990年代。しかも2度も達成する。私はこの時代をニューヨークで過ごした。ただしおのずと、これは逆に大変残念なことに、ユーイングがエースだったニューヨーク・ニックス・ファンとなった。

マンハッタンにあるマジソン・スクエア・ガーデンで、わがニックスがジョーダンにこてんぱんにやられるのを何度も目撃して来た。そしてニックスがNBAファイナルズに進出できずにいる間、ブルズが、ジョーダンが王者として戴冠する瞬間を目に焼き付けられた。

ブルズが初優勝を果たした91年、ニックスはプレーオフ初戦でブルズと対戦するが3タテを喰らい即敗退。ブルズは、マジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズとファイナルズで対戦し、第5戦の第4Qまでレイカーズに先行を許していたが、マジックとマッチアップしたジョーダンは30得点、スコティ・ピッペンが32得点、ジョン・パクソンが20得点と猛烈な追い上げを見せ逆転、4勝1敗で初優勝を果たした。この3人は最初の3連覇のキー・プレーヤーでもある。

92年もニックスはカンファレンス・セミファイナルでブルズと対戦。この際は「惜しくも」4対3で敗れ去る。特に第7戦ではジョーダンに45得点されての「惜敗」だった。

ブルズはこの年、ファイナルズで、ドラフトの際、ジョーダンを指名できた権利を持っていながら、同じポジションにオールスター・シューター、クライド・ドレクスラーがいたため見送ったという過去があったポートランド・ブレイザーズと対戦。これも優勝を決めた第6戦は第3Qまでブルズが劣勢だったものの、ジョーダンとピッペンの猛攻により2連覇を決めた。

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93年、またもニックスはカンファレンス決勝でブルズと対戦。第3戦までジョーダンをFG40%以下に抑え込むものの、第4戦でジョーダンに54得点され、そのまま4連勝を許し、逆転でカンファレンス優勝を逃した。

ファイナルズでブルズは、ジョーダンの親友・チャールズ・バークリーのフェニックス・サンズと顔を合わせる。3勝と王手をかけた第6戦、残り3秒余で98対96とサンズがリード。誰もが最後のプレーでジョーダンが攻撃を仕掛けて来ると信じていたところ、3ポイント・ラインにポジションしていたパクソンがフリー。

綺麗な弧を描いたシュートを見事に沈め、ブルズが3連覇を達成した。「surreal」なシュートとして新聞を賑わしたのを、鮮明に覚えている。

この大活躍の後、ジョーダンを悲劇が襲う。知人の結婚式にでかけたジョーダンの父が帰路、強盗に襲われ命を落とす。ジョーダンは引退。父の夢だったメジャー・リーガーを目指し、シカゴ・ホワイトソックス傘下のチームで昇格を目指した。

スポーツに「タラ・レバはなし」との鉄則ありだが、もしこの事件がなければ、シカゴ・ブルズがNBA8連覇を成し遂げていたであろうことは想像に固くない。

ジョーダンがブルズにドラフト3位で指名された際の1位、ハキーム・オラジュワンはジョーダンの「2年の休暇」のおかげで、ロケッツを2連覇へと導くことになる。

NBA9連覇の夢

(c)Getty Images

ニックス・ファンとして、ジョーダンにもっとも腹を立てた試合を紹介したい。

94年、MLBはストライキに突入。そのおかげでジョーダンは野球を諦め、18ヵ月ぶりにブルズに復帰。94年3月19日、対インディアナ・ペイサーズ戦に出場、19得点とした。

新聞には「I’M BACK」と大きな見出しが踊ったが、メディアは19得点の彼を「ジョーダンであってジョーダンではない」と厳しく叩いた。今、八村塁が19得点を挙げたなら日本のメディアはどう取り上げるだろう。

最初の数試合を眺め、ニックス・ファンとして少し安堵した。それと言うのも93年、ニックスはイースト・カンファレンスの王者となり、久々にファイナルズに駒を進めてNBA準優勝という立場になった。「95年こそはNBA制覇だ」、私を含めニューヨークのファンはみなそう望んでいた。

ジョーダンは復帰後5試合目にしてマジソン・スクエア・ガーデンにやって来た。「あのジョーダンになら今夜は勝てる」、多くのニックス・ファンがそう思っていたに違いない。私もそう信じ、マンハッタンの34丁目に足を運んだひとりだった。

ところが、ジョーダンはこの試合で55得点。ニックスは惨敗を喫する。やはり、ジョーダンはバスケの神様だった

(c)Getty Images

2度目の3連覇は、最初の3連覇のリプレイだった。特に97年、対ユタ・ジャズのファイナルズ、優勝を決めた第6戦では残り30秒でジャズがリード。ここでジョーダンからパスを受けたスティーブ・カーが正面からスリー・ポイントを見事に沈め、逆転勝利。パクソンの93年のスリーを目撃した者に「またか!」と思わせた。

現在、ゴールデンステート・ウォリアーズ監督となっているカーは優勝後、TVトークショーに出演。劇的なクラッチ・ショットについてジョーダンから指名された事実に触れ、ホストから「それになんて応えたんだい?」と訊ねられると「『ボ、ボ、ボクが打つのかい?』と返したさ!」とジョーク交じりに回答、会場の笑いを誘った。

実際は「I’m ready」と応えたとされ、カーの人柄がわかるエピソードだったと、今でもこのショーを記憶している。

98年シーズン「ラスト・ダンス」と呼ばれた2度目の3連覇後、ブルズ・フロントはこの黄金期をささえたフィル・ジャクソン監督との契約を延長せず、ピッペンはロケッツへとトレード、ジョーダンは次のシーズンをプレーしないまま、翌年2度目の引退生命を出した。

それにしても本物の神様は、なかなか意地悪なものだ。次のシーズンもブルズがデニス・ロッドマンも含めたあのメンバーで戦っていたとしたら、優勝も可能だったのではないか……。

すると、実はシカゴ・ブルズにはセルティクスも成し遂げることができなかった9連覇さえ可能だったはずだ

さすがにバスケの神様・ジョーダンとは言え、過去は覆せない。この想像をする時だけは、「ブルズ・ファンでなくてよかった」と思うもの。群雄割拠の現在のNBAでは、そんな夢を観ることもないだろう。

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≪著者プロフィール≫
たまさぶろ●スポーツ・プロデューサー、エッセイスト、BAR評論家
週刊誌、音楽雑誌編集者などを経て渡米。CNN本社にてChief Director of Sportsとして勤務。帰国後、毎日新聞とマイクロソフトの協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」をプロデュース。日本で初めて既存メディアとデジタルメディアの融合を成功させる。
MLB日本語公式サイト・プロデューサー、 東京マラソン事務局広報ディレクター、プロ野球公式記録DBプロジェクト・マネジャーなどを歴任。エッセイスト、BAR評論家として著作『My Lost New York~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』『麗しきバーテンダーたち』『【東京】ゆとりを愉しむ至福のBAR』などあり。

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