マイケル・ジョーダン。バスケットボール・ファンとして、この名を知らない者はないだろう。
通算1072試合出場、32292得点、6672リバウンド、5633アシスト、2514スティール、1試合平均30.12得点、84年のシカゴ・ブルズ入団以来積み重ねてきた堂々とした成績だ。ジョーダンのキャリアの中で4年もプレーしなかった(途中復帰も含め)シーズンを省みると、引退まで各シーズンともフルにプレーしていたら、いったいどんな数字が残されていたかと、スポーツのタブー「たら」「れば」を連想させられる。
2003年4月17日、ジョーダンはついにその栄光に満ちたキャリアに終止符を打った。生涯通算成績も賞賛に値するのはもちろんだが、ジョーダンのプレースタイルが現在のバスケットボールに与えた影響は計り知れない。ジョーダンなきバスケットボールは、それまでセンターを中心にゲームを組み立てていた。NBAを連覇するような強豪チームには、必ずと言っていいほど傑出したセンターが存在した。カート・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドール・ジャバー、ロバート・バリッシュ…マジック・ジョンソンもラリー・バードもこうしたセンターたちと共にプレーしてきた。ジョーダンが大リーグ挑戦という「休暇」取っていた93-95年のシーズンには、ハキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツが連覇、ジョーダンが二度目の三連覇を達成し引退した後の優勝チームでは、デイビッド・ロビンソン、シャキール・オニールが活躍したのは、その象徴だ。
■ジョーダンがチームを良さを引き出すプレーでNBA初制覇に導く
ジョーダンのチームには柱となるセンターはいなかった。当時弱小とも言えたブルズに入団するや、シューティング・ガードとしてその天賦の才を発揮し、みずから爆発的な得点力でチームを牽引し続けた。1試合平均37.1得点を記録した86年あたりから、「利己的で自分が得点できればいい」と批評され、チームプレーができないとさえ揶揄された。しかし、その後91年のNBA初連覇までに、チームのサポートを引き出すプレースタイルを完成し、そうした中傷すべて封じ込んだことが、ジョーダンのバスケットボール・プレーヤーとしての完成度を物語っている。ダブルチーム、トリプルチームをひきつけることで、ディフェンスを崩し、チームメートのサポートを引き出すスタイルに長けているのは、ジョーダンをおいて他にない。ディフェンス側の選手がばらばらとジョーダンの周りに集まる様は、時としてボールに集まってしまう小学生のバスケットボールを想起させた。チャールズ・バークリーを打ち破った最初の3連覇の際、ジョン・バクストンの3ポイント、97年のNBAファイナルでスティーブ・カーのゲームウィニングショットを生み出したのは、ジョーダンのチームプレーの真骨頂だろう。
ジョーダン率いたシカゴ・ブルズの後、再び黄金期を築くかに見えるレイカースは、フィル・ジャクソン監督の指揮のもと、コービー・ブライアントを抱えながらも、やはりシャックをセンターにすえたプレースタイルを持ち、ジョーダンのゲームメイクを引き継ぐチームではない。皮肉にも17日、ジョーダン最後の対戦相手となったアレン・アイバーソン率いる76ersは、そのスタイルを継承しているように見える。ジョージタウン大学時代からポイントガードとして活躍してきたアイバーソンを、シューティング・ガードにコンバート。アイバーソンは、1998年-99年、2000年-01年、2001年-02年のそれぞれのシーズンでNBA一身長の小さい得点王に輝いている。アイバーソンが、ジョーダンの生み出したようなゲームメイクを創造していくのか、またNBAを次のレベルへと引き上げていくのか着目したい。大男だけがフープ下を支配するプレーは圧巻ではあるが、時として退屈でもあるのだから。
エアというニックネームどおり、そのフープに向かうジョーダンのアプローチは見る者の目を奪い続けてきた。滞空時間の長いダンク、そのフープ下でボールを持ち替えるダブルクラッチ、トリプルクラッチ。すべて、ジョーダンのプレーの代名詞だ。しかし、キャリア後半、ジョーダンの選手寿命を延ばしたのは、正確無比なジャンプ・ショットだ。ダブルチームをひっぱりながら、体を入れ替えた、フェイダウェイ気味のジャンプ・ショットは、派手なダンクよりも何よりもジョーダンのキャリアのバックボーンだった。
95年、一度目の現役復帰時、背番号45をつけたジョーダンは、いささか焦点を失っていたかに思えた。しかし、復帰5戦目のニューヨーク・ニックスとの試合で、ジャンプ・ショットを次々と決め、55得点をたたき出し、ニューヨークのファンに「ジョーダン復活」を印象付けた。ジョーダンの放つジャンプ・シュートは、フープの向こうから糸をつけてひっぱっているかのように面白いようにネットに吸い込まれた。振り返れば、ノースカロライナ大時代の82年NCAA決勝残り17秒で決めたゲームウィニングショットもジャンプ・シュートだった。ジョーダンの成功は正確なジャンプ・シュートに裏付けられていたのだ。
バスケットボール・プレーヤーとしてのトータルパッケージとして群を抜いていたジョーダンのプレーの根底にあったのは、月並みではあるが、やはりバスケットボールへの情熱だったのだろう。「40歳の男が必死でボールを追っているのに、24、25歳の選手がそれを冷たい目で見ているのは、悲しい。」ウィザーズに現役復帰してからこのコメントが、何よりもジョーダンのバスケへの熱意を物語っている。そして、ジョーダンは自分の中にこの情熱の温度差を見つけたからこそ「去るときが来た」とまで明言し、コートを後にする決意をした。
マイケル・ジョーダン。この偉大なアスリートを三度、そして今度こそ完全に失ったNBAが、もはや神のプレーを必要としないことを願いながら、最後のスタンディングオベーションを贈ろう。
MSNスポーツ 2003年4月20日掲載分に加筆・転載
著者プロフィール
たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー
『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨークで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。
MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。
推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。
リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、クイーンズ区住民だったこともあり、ニューヨーク・メッツ推し。
著書に『My Lost New York ~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』、『麗しきバーテンダーたち』など。