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【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

■RALLIARTからラリーアートへ

株式会社ラリーアートが設立されたのは1984年4月。私は、学生時代のその当時、既にラリーアートとは接点があった。父が勤務する三菱ふそう系販売会社で懇意にしていたメーカーのロードマン、つまり三菱自動車と販売会社の窓口役で、今で言えばフィールドマネージャーの異動先が「宣伝・ラリーアート」となり、父を通して私の元にもラリーアートのグッズやミラージュカップの招待券が届いていた。もっとも、学業終了後の進路に三菱自動車を志したのは別の理由ではあるが……。

「RALLIART」という呼称は株式会社ラリーアートの設立以前、1981年にランサーEXターボでWRCに復帰した際に三菱チームに冠されていた。ラリーに出場する海外プライベーター向けのパーツカタログには「RALLIARTとは、モータースポーツをアートの領域に高める三菱自動車のモータースポーツプログラムの名称である」と記されていた(原文英語・意訳)。

WRCデビューしたランサーEXターボ (筆者提供)

1983年、パジェロの「パリ・ダカール・ラリー」初出場(市販車無改造クラス優勝)でもRALLIARTのロゴが控えめに配されているのも、チーム名と言うよりプログラム呼称とされたがゆえであろう。

1983年パリ・ダカール・ラリー出場のパジェロ (撮影:平賀一洋)

■ラリーアート・ヨーロッパの始動

パジェロが砂漠への挑戦を始めた頃、WRCは4WDターボ (アウディ・クワトロ)の出現で変革期を迎えていた。三菱はランサーEXターボに代えて、スポーツクーペのスタリオンを4WD化しての参戦を決める。これに伴い活動拠点をオーストリアから英国に移し、RALLIART EUROPE(以下RAE=ラリーアート・ヨーロッパ)が始動する。

スタリオン4WDラリーが挑むのは当時のWRCトップカテゴリーであるグループB。WRC出場のためとはいえ200台の市販義務が課されるのだから、ラリーの実動部隊だけで進められるものではない。純粋に自動車メーカーのプロジェクトだ。

ちなみにインターネットでは1970年代から三菱のパートナーであったラリードライバーの故アンドリュー・コーワン氏が「ラリーアートの創設者」であるとの表記が見られるが、これは誤りである。コーワン氏は英国の会社法の規定に基づき、RAEに人材と機材を提供するための「アンドリュー・コーワン・モータースポーツ(ACM) 」を設立。このACMが後にドイツで設立される三菱自動車モータースポーツ(MMSP)に買収、子会社化されるに至った。このことがあたかもMMSPがラリーアートの後継組織であるかのような誤解を生じたかもしれない。

幻の名車スタリオン4WD RALLY (筆者提供)

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そして1984年4月、英国でRAEがスタリオン4WDラリーのテストを進める一方、日本では三菱自動車全額出資のモータースポーツ事業会社として「株式会社ラリーアート」が設立される。商品企画、広報宣伝など各部門から人材が集結し、本拠は宣伝部内に置かれた。

当時三菱自動車宣伝部に所属し国内モータースポーツ等を担当していた須賀健太郎氏(後にラリーアート兼務)によると、「ラリーアート」という新しい組織とブランド名のもとで、三菱自動車のモータースポーツ活動を推進するプロジェクトの一翼を担う、すなわち「新しい仕事を作り出すというやり甲斐」を感じていたとのことだ。

ラリーアートには、1960年代からの三菱自動車の実戦活動におけるワークスチームとしての権能が「コルトモータースポーツクラブ(CMSC)※注記事末」から移管された(当該記述は『三菱自動車工業株式会社社史』による)。これに伴い国内でのモータースポーツ活動も活発になる。モデルチェンジしたミラージュ(C13A)でのワンメイクレースが開始され、ラリーやオフロードレースなどでも三菱車にはRALLIARTのロゴが誇らしく輝いた。

同時期スタリオンは海外のサーキットレースでも英国ディーラーチームなどが活躍しており、日本でもラリーアートによって全日本ツーリングカー選手権に投入された。ミラージュカップで頭角を現したモータージャーナリストの中谷明彦氏、そして当時は日産のイメージの強かった高橋国光氏の起用はレースファンに驚きをもって迎えられた。後の三菱WRCチームの木全巖(きまた・いわお)総監督やアンドリュー・コーワンRAE代表の姿がピットにあったのも、なかなかユニークだった。

スタリオンは当時グループAツーリングカーレースで強さを発揮していたボルボやジャガーの、日本遠征での楽勝ムードを吹き飛ばしもした。ジャガーチームの監督トム・ウォーキンショーは「あのクルマは一体何だ!?」と驚きを隠さなかったという。いずれも「ラリーの三菱」しかご存じない方々には新鮮なエピソードかもしれない。

JTCスタリオン(C)三菱自動車

しかし、WRCに挑もうとしたスタリオン4WDラリーの参戦計画は頓挫する。邦貨にして当時800万円を超えると言われた車両価格の高額化、市販車にふさわしくない振動と騒音の問題 (木全氏によると、ラリーカーでは熱の問題も大きかったという。トランスミッション・ケースに接する右脚は低温ヤケド、レーシングシューズの底は溶けたそうだ)から市販計画がキャンセルされたのだ。WRCにおけるグループBも先鋭化するマシンにより相次いだ競技中の事故で、1986年限りで廃止された。

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RAEは未公認車両も出場可能なイベントにスタリオン4WDラリーのスポット参戦や、後輪駆動のグループAスタリオンを中東などのリージョン選手権に投入し、来るべき浮揚のときに備えることになる。

※コルトモータースポーツクラブ(CMSC)

1964年に設立された、日本自動車連盟 (JAF)登録クラブ。当初は三菱自動車の実戦参加を担っていたが、株式会社ラリーアートの発足以降は日本各地に三菱ユーザー主体で設立された支部を統括するためラリーアート内に本部を置いた。設立経緯から三菱自動車とラリーアートの社員で構成された本部に対し、支部はモータースポーツ愛好家であるユーザー主体であった。それら支部所属の選手からもセミワークス的に起用されるケースもあり、他のメーカー系列のモータースポーツクラブとは違った特色を有した。

三菱自動車のみならずモータースポーツ界に貢献してきた人物を会長に戴き(初代・外川一雄、第二代・木全巖、 現・田口雅生)、ラリーアートの業務終了以降は本記事中にも登場する須賀健太郎氏が本部事務局長として組織を維持し、現在も30の支部と約800名の会員で活動を続けている。

◆【三菱ラリーアート正史】第2回 世界最強のラリー軍団が時代をつくる

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著者プロフィール

中田由彦●広告プランナー、コピーライター

1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。