■槍騎兵(Lancer) との訣別、そして終焉
センターデフをアクティブ化するなどモータースポーツ部によるアップデートが奏功しランサーは、トップに伍して戦う力を見せ始めていた。だが、三菱自動車は「ターンアラウンド計画」と名づけた経営再建を最優先に、WRCから2005年限りで撤退。2006年以降はプライベーターに貸与するランサーWRCの支援という名目で最小限の活動は存続したものの、当初WRC復帰の時期とアナウンスされた2008年にもそれがかなうことはなかった。
ダカールラリーに注力することになった三菱は、環境対策の先行技術開発のひとつでもあったディーゼル・エンジン (競技規則上も優遇されていた)をパジェロエ・ボリューションMPR14に搭載して2008年のパリダカに投入予定だったが、同大会はテロ予告でスタート前日に中止となる。

パジェロエボリューションMPR14 貴重なディーゼルプロト(提供:村田竜一)
翌2009年、南米開催となったダカールラリーに三菱はパジェロに変わるレーシング・ランサーMRX-09(ランサースポーツバック=日本でのギャラン・フォルティス・スポーツバックをイメージさせるボディーワーク)にディーゼル・エンジンを搭載して出場するが、リーマンショックによる世界的経済危機が影を落とし、2009年のレーシング・ランサー最初の参戦をもって三菱自動車のワークス・モータースポーツ活動は終了する。
三菱自動車の現況と照らし合わせ、モータースポーツ(ヨーロッパの拠点、すなわちMMSP)に多額の予算を割くのは適切ではないという経営判断だった。実動部隊を完全子会社としたままのMMSP自体は単体で利益を生む組織ではなく、わずか数年前にクワント氏の構想した通りの「マーケティングからのリターン」は (経済危機はあったとしても) 貢献と言えるレベルにもなかっただろう。ゆえに、その判断は至極当然のものだったと私は思っている。
だが、その翌年3月、株式会社ラリーアートも幕を閉じた。まだ三菱車を必要とする数多い内外のプライベーターやファンに惜しまれつつ。このときばかりは私も自分の青春まで無残に打ち砕かれて捨てられたように感じた。悲しみと怒りが入り混じった、たとえ様のない感情だ。
三菱自動車のモータースポーツの実戦活動の根幹をその初期から成し、株式会社ラリーアートの設立以降はワークスチームとしての権能を返上しながらもセミワークス的クラブマンチームとなっていたコルト・モータースポーツ・クラブ(CMSC)も大きな影響を受けた。
2010年4月以降はラリーアート元マネージャーの須賀健太郎氏ら関係者の尽力で、三菱モータースポーツの原点たる「コルト」その名のままに在野のクラブマンチームとして再スタートする。
三菱WRCチーム元総監督・木全巖(きまた・いわお)CMSC会長はその任に留まり、木全会長の逝去後はラリーアート最後の社長・田口雅生氏を会長としたことからも分かるとおり、CMSCは野にあってもラリーアートが掲げた「The Spirit of Competition」、三菱モータースポーツのスピリットを継承した。
CMSCは全日本選手権を始めとするモータースポーツ・フィールドで活躍を続けた。もう手に入らなくなったRALLIARTのステッカーをあらん限り集め、ランサーに、ミラージュに貼り続けた。砕けてしまったダイヤモンドの、その欠片を守るために……。人々からラリーアートの記憶が薄れ行く中でも、来るべき日を信じて……。

ラリーアートHP、惜別のメッセージ スクリーンショット
◆【三菱ラリーアート正史】第5回/最終回 モータースポーツの新たなる胎動 そして復活への第一歩
◆【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る
著者プロフィール
中田由彦●広告プランナー、コピーライター
1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。








