【三菱ラリーアート正史】最終回 モータースポーツの新たなる胎動 そして復活への第一歩

 

【三菱ラリーアート正史】最終回 モータースポーツの新たなる胎動 そして復活への第一歩
アウトランダーPHEV バハ・ポルタレグレ出場車(C)三菱自動車

■「熱血を忘れてないか。」 今が最後のチャンス

熱血を忘れてないか。」 20年前の三菱自動車の新聞広告に記されたヘッドコピーだ。そして、先の村田さんの言わんとするところを端的に言い表した言葉が続く。

「壊れたら、壊れないクルマを作ればいい。勝った数より負けた数の方が多い。その負けが三菱のクルマを強くした」。

1960年代からモータースポーツ活動を推進し乗用車商品企画部長を務め、広告掲載当時はラリーアートの社長であった北根幸道氏の言葉だ。そこにあるのはラリーでの勝ち負けではない。クルマづくりの本質だ。

そのコピーを座右の銘として三菱自動車の技術センターに勤める若いエンジニアを私は知っている。彼は三菱がモータースポーツ活動を終えた後の入社だ。いつかモータースポーツに関わることを夢見ているだろう。

かつて極限に挑んだ人たちの技術とマインドを、彼のような人材に継承してもらうことも急ぐ必要がある。ラリーアートが存在した時代にモータースポーツ活動に関わった社員たちも年齢を重ね、三菱自動車を離れる日も遠くはない。今がその、最後のチャンスだと思う。

アウトランダーPHEV ラリーアートStyle(C)三菱自動車

新生ラリーアートのスタートは現状あくまでも純正用品(車両装着アクセサリー)ブランドとしてではあるが、三菱自動車・加藤社長は、こうも言っている。

Advertisement


このブランドのスピリットを感じられるような活動を検討しております」。

若き日にアフリカを疾走するパジェロに声援を送っていたであろう三菱自動車のトップが、自らの言葉で新生ラリーアートの将来を語る。それは世界のモータースポーツ2大イベントを同時に追った時代と単純に比較はできないが、一時期とはいえラリーアートのポジションを変えたことによってファンからはやや遠い存在になってしまった三菱自動車のモータースポーツを再びファンに還そうとした、象徴的な2005年体制発表に通じるスピリットを感じた。

熱血を忘れていない人が、ここにもいた、と。

私が三菱自動車を離れてまもなく20年が過ぎるが、「三菱自動車マンの思考」は忘れてはいない。あくまで私見であるとお断りしておくが、検討とは、何を、いつやるか、だ。

三菱自動車は今、みずからを強くするために「RALLIART」と刻印されたパーツを再び手に取った。最初に手にしたのは一本のボルトかもしれないが、無数のパーツはやがて組み上げられ、私たちがもっとも望んでいる「活動」も必ずや再開される。三菱自動車は新生ラリーアートとともに、いつか見ていた道を再び目指して走り始めると私は固く信じる。

それが訪れたときこそ10余年のラリーアート空白の期間を、再びの浮揚に備えた雌伏の時間と書き換えたいと思う。

(C)三菱自動車

※本稿執筆にあたり、不出来な後輩にお力添えくださった田口雅生氏(元ラリーアート社長)、須賀健太郎氏(元ラリーアートマネージャー)、三菱自動車工業株式会社、ならびに関係者の皆様に心より感謝申し上げます。

(完)

◆【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

◆「パリダカの三菱」が復活か 東京オートサロン2022で『VISION RALLIART CONCEPT』お披露目

◆三菱自動車の魂 RALLIART がラリーに還る日

著者プロフィール

中田由彦●広告プランナー、コピーライター

1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。

izukawaya