巻誠一郎が引退試合に馳せる2つの想い

もうすぐあれから1年が経とうとしている。

2019年1月、巻誠一郎さん(39)は、所属クラブのロアッソ熊本を通じ、16年間の現役生活に幕を降ろすことを発表した。まるで夏の日の夕立のように突然の出来事に、混乱したファンやサポーター、関係者も多かったのではないだろうか。

2018年シーズンのリーグ戦は、出場時間は限られていたものの、25試合に出場しており、まだまだ「引退」を想像させるような選手ではなかったのだから、混乱するのも当然である。

「巻誠一郎」といえば、184cmという長身を生かしたヘディングと当たり負けしないフィジカルの強さ、そしてチームのために労を惜しまずピッチを走り回る献身的なプレーが持ち味の選手だった。

そのひたむきな姿は、常にチームメイトを鼓舞し、観客の目を釘付けにし、多くの人々の心を鷲掴みにした。感情に訴えかけることができる、稀有なパーソナリティを持った選手だったといえよう。

(c)Getty Images

そんな巻さんに、引退を決断した当時のことを聞くと、他人事のような口調で、こう答えた。

「怪我もなかったし、身体も動いていました。それに、若いヤツらにも負けないくらいの情熱もありましたから、もうちょっとやるんだろうなぁと思っていました

短い出場時間ながら、スタジアムの雰囲気をガラリと変えられる巻さんは、チームにとって欠かすことのできない存在だった。にもかかわらず、なぜ、巻さんは引退を決断したのだろうか。

「僕は、常に自分の存在価値を発揮できるところでプレーしたいと思って、クラブを選択してきました。それが、ジェフ千葉や東京ヴェルディやロアッソ熊本だったわけです。でも、だんだんクラブの中で、自分が追い求める理想と、クラブが追い求める理想が合わなくなってきてしまいました。

ピッチの中で表現できる自分の価値と、ピッチの外で表現できるであろう自分の価値を比べた時、後者の価値の方が大きいんじゃないかと考えて、引退することを決めました」

トップアスリートが自らの競技人生に幕を引く時、その引き際は実に様々である。怪我を理由に引退する者もいれば、世代交代の波に飲み込まれながら引退する者もいる。

だが、巻さんのように、ピッチ内外の相対的な価値を比較し、サッカーに対して情熱を持ちながら引退を決断した選手は、あまりいないのではないだろうか。

地元熊本が教えてくれた価値

巻さんが、ピッチの外で自分の力を発揮できると感じたのは、2016年4月に故郷を襲った熊本地震でのことだった。

巻さん自身も家族とともに避難生活を余儀なくされ、幸せな日常を奪われたひとりだ。しかし、そんな我が身をかえりみず「傷ついた故郷のために出来ることを」と、毎日のように被災地を訪問。支援物資を届けたり、老若男女を問わず、人々に声をかけ続けながら、熊本から失われた笑顔を取り戻そうと尽力した。

特にサッカーボール一つで、子供たちが目の輝きを取り戻していく様子をみるうちに、トップアスリートの価値はピッチの外にもあるということを強く感じたという。

巻さんがピッチの中と外で、自分の価値を天秤にかけながら、引退を決断するに至るまでの心の葛藤は、以下のコメントにも垣間見ることができる。

「プロサッカー選手としては、身体に痛いところがたくさん出てきて、ボロボロになって辞めるのが理想だと思うんですよ。でも、僕の場合は身体も動いていたし、もっとプレイしたいという情熱も持っていました。実際、引退の会見をする日まで、それまでと同じようにトレーニングして、来年も同じようにシーズンを頑張るぞって思っていました。そんな中で辞めることを決めたので、未練があったのは事実です。

でも、僕がプロサッカー選手として大事にしてきたものは譲れなかった。自分に嘘はつけないなと。心のどこかでモヤモヤしたものがある中で続けるより、次のステージへ向かおうと決意しました。変なやつですよね。でも、それが僕の引き際だったのかなと思います」

ファン・サポーターと共に歩んだプロ生活

巻さんが「大切なことに気づかされた」と評する試合がある。ジェフ千葉に在籍していた2008年シーズンの最終節、ホームでのFC東京戦だ。残留争いをしていたジェフ千葉は、勝利しなければJ2に自動降格という絶体絶命の危機を迎えていた。しかもチームは2点のビハインドを負ってしまう。

だが、サポーターたちは奇跡を信じて熱い声援と祈りをおくる。そのスタジアムの空気が、チームを強く後押しした。後半残り11分で4得点を挙げての大逆転勝利、そして奇跡のJ1残留を決めた。あの試合を振り返りながら、巻さんはサポーターの価値について、以下のようなことを語っている。

サポーターたちが作ってくれるスタジアムの雰囲気は、ただ11人対11人でやるサッカーとは異なる価値があるんです。『見えない力』って言うと陳腐ですかね。普段なら諦めてしまいそうな場面で、それ以上のパワーが出たり、逆に、相手チームに普段では起こり得ないミスが起こったり。

あの試合で、スタジアムに足を運んでくれるサポーターも含めて、僕らは一つのクラブなんだと感じることができました」

引退試合に込めた想い そして巻誠一郎が示す道

その後の巻さんは、それまで以上にサポーターをクラブの一員と考えて接するようになった。チームの順位が低迷し、不満を漏らすサポーターの声にも耳を傾けた。逃げずに話し合ったことは1度や2度ではない。熊本地震が起きた際は、サッカーができる環境を提供してくれるという支援の話を断り、熊本に残って地域と共に歩むことにした。

それも、同じ地域に住むサポーターを大切にしていたことと、決して無関係ではなかっただろう。逃げたくなるようなことに対しても、真っ正面から向き合ってきたからこそ、巻さんは人の心を動かしてきたのだ。

そんな巻さんが、引退して1年が経った今、自ら先頭に立って準備を進めているのが「巻誠一郎引退試合」である。

巻さんは、引退試合を開催するにあたり2つの想いを抱いている。1つは、今まで応援してくれたサポーターたちに、ちゃんとした形で感謝の気持ちを伝えるということ。そしてもう1つは、熊本の子供たちが夢や希望を持つきっかけになるような、本物のプレーを見せてあげるということだ。

特に、熊本の子供たちを試合に無料招待するために、現在もクラウドファンディングで支援者を募っている(https://www.makuake.com/project/maki18/)。すでに、12月6日時点で、目標の297パーセントを達成し、支援の輪はさらに広がっている。

「日本のためとか、社会のためっていうと、規模が大きくなりすぎてしまって、自分の持つポテンシャルとか、能力を超えちゃうなと思っています。餅は餅屋じゃないですけど、まずは自分ができることを熊本という想いの詰まった場所で形にして、それが大きくなったら、もっと全国に広めていけたらいいなと。そうやって、サッカーを通じて、社会と繋がるハブのような存在になるという道を示せたらいいのかなと思っています」

2019年1月。巻さんの想いに賛同した歴代の名選手たちが、熊本に集結する。

そして、そこに集まった子供たちやファン・サポーター、そして歴代の日本代表選手たちが一体となった時、巻さんの想いは熊本から全国に羽ばたいていくのだろう。

巻誠一郎 引退試合「巻フレンズ vs 元日本代表ドリームチーム」

概要

【日時】2020年1月13日(月・祝)13時キックオフ
【会場】えがお健康スタジアム
【主催】公益財団法人日本サッカー協会、公益社団法人日本プロサッカーリーグ
【主管】(株)アスリートクラブ熊本、巻 誠一郎 引退試合実行委員会

出場予定選手 (12月5日時点)

  • 土肥洋一
  • 楢崎正剛
  • 坂本將貴
  • 坪井慶介
  • 楽山孝志
  • 石川直宏
  • 高松大樹
  • イリアン・ストヤノフ
  • 片山奨典
  • 福西崇史
  • 久保竜彦
  • 鈴木啓太
  • 播戸竜二
  • 加地亮
  • 鈴木隆行
  • 羽生直剛
  • 中島浩司
  • 中西永輔
  • 西紀寛
  • 土屋征夫

≪取材・文・写真:瀬川泰祐≫

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