「陸上で生きていく」立命館大学・田中佑美が語る競技生活のこれまでとこれから

 

Advertisement

「陸上で生きていく」立命館大学・田中佑美が語る競技生活のこれまでとこれから

100mハードルを専門とし、高校時代はインターハイを連覇、立命館大学3回生となった昨年は全日本インカレを制して学生チャンピオンを射止めた21歳の田中佑美(たなか ゆみ)選手。陸上競技で成長を続ける学生アスリートだ。

100mハードルは、スタートからゴールまでの100mにハードルが10台、8.5m間隔で設置されている。それを跳び越えていく様を彼女は「ショートムービー」と表現する。

スタートから一定の動きのままゴールする100m走と比べ、ハードルとハードルの間に切り替えがあって飽きないという。

宝塚に入るのが夢だった

中学1年から陸上を始め、関西大学第一高等学校時代に頭角を現した田中選手だが、高校2年で競技を辞めるつもりだった。

Advertisement


撮影:Hideyuki Gomibuchi

Advertisement


「私は宝塚歌劇団が好きで、小学校の頃から宝塚に入るのが夢でした。高校の陸上部に入る段階から顧問の先生に、私は宝塚に入りたいので高2で宝塚音楽学校を受験します、だから辞めますって言っていたんですよ(笑)」

そこで入学願書は手に入れたものの、インターハイで優勝した手前「辞めると言えない」立場になってしまっていた。

二の足を踏んでる姿を見た親から「何をおいても宝塚に入りたいという状況でないのならば、宝塚受験をあきらめるべきじゃない?」と言われ、気持ちの整理がついたという。

そして172cmと恵まれたスタイルは宝塚の舞台ではなく、陸上のフィールドで一層輝きを見せることになる。翌年、インターハイ連覇を達成。おのずと未来へのレールに変化が生まれた。

「自分の人生設計は関西大学に行く。高校途中で辞めて宝塚に行く。そのどっちかだと思っていたのですが、高校3年間で第三の選択肢として陸上で生きていくという選択肢ができました」

クラシックバレエと陸上の両立

田中選手の陸上との出会いは、中学1年までさかのぼる。入学後に見学した部活動の中で、陸上部は「木曜日と日曜日が休み」で他の部活と比べて時間が作りやすかった。

4歳から習っていたクラッシクバレエとも両立できると考え、陸上部の門を叩いた。門の向こうでハードルとの出会いが待っていた。

撮影:Hideyuki Gomibuchi

私自身は高跳びがしたくて。でも顧問の先生にバレエをしていましたと話したら、『体が柔らかいからハードルが向いているよ!』と譲ってくれなくて。地区大会も抜けられないような活動でしたが『君なら中央大会に行けるよ』と言われて、じゃあやる!みたいな感じでした」

そんな環境でも中学2年になると地区大会を勝ち上がり、大阪府の中学生が集う全日本中学校通信陸上競技大阪大会(通信大会)に出場することもできた。

初めて土のトラックではない試合ユニフォームがなかったので高校の先輩に借りたり靴のピンを変えたり、間に合わせで出場した大会でしたが準決勝あたりまで残れて。大阪中体連の強化指定選手に選んでいただいて、そこで初めて陸上のイロハを教えていただきました」

中学3年で全国中学校陸上競技選手権大会の標準記録を突破。また万博ナイター陸上競技大会ではぶっつけ本番で臨んだユースハードルにおいて大会記録を更新。田中選手は次第に結果を残すようになる。

その頃はハードルの間も測らずに練習していました」と笑う。

※中学生のジュニアハードルはハードル間8.0m。ユースハードルは一般と同じハードル間8.5mになるが、大会当日まで知らなかった。

陸上で生きていく選択肢

関西大学付属の中高一貫教育で学んだ田中選手。進学した関西大学第一高等学校でもそのまま陸上部に進むかと思いきや、「続ける気はさらさらなかったんですけど……」と苦笑い。

先述した「高校2年で競技を辞めるつもりだった」以前にも、辞めようとしたことがあったのだ。

©立命館大学

「中学はかなりゆるい部活だったけど、高校はすごく厳しい。朝練とか無理と思っていました。でも中学1年からライバルだった同級生が(陸上を)続けると言って、負けたくなくて続けることにしました

競技を続けた結果は2015年、2年生でインターハイ優勝を飾り実を結ぶ。

インターハイ直前はコロンビアで行われた第9回世界ユース陸上競技選手権大会に日本代表として派遣されていた田中選手。だが初の世界大会でまったく力を出せず、13位で終わっていた。

苦しい思いしかしなかった試合。それが辛くて、それを払拭したくて(インターハイを)走っていました」と振り返る。

3年生になりインターハイを連覇したことで「陸上で生きていく」という選択肢もできた田中選手。その時に「じゃあ関西大学に行くの?」という疑問がわいたという。

関西大学付属の中学、高校で学んできたが、関西大学は陸上をするために選んだわけではなかったからだ。

撮影:Hideyuki Gomibuchi

「陸上をすると考えた時に、高校時代の合宿で立命館大学浅見公博コーチにお世話になったことを思い出しました。また監督とコーチも高校まで声をかけに来てくださいました」

その縁は、田中選手が立命館大学に進学して陸上を続ける決定打となった。大学でも競技をすることで、高校時代にはなかった意識も生まれた。

「現在は主将もさせていただいてるので視野も広がりました。高校は部員も少なく一人でする陸上で、顧問の先生ともぶつかりあいながら(上を)目指している感じ……。誰かと協力したり、誰かのことを考えて走るというのは大学に来てから身につきました。立命館は総合優勝を目指しているので、チーム意識が芽生えましたね

100mハードルは生活の一部

田中選手の100mハードル自己ベストは2019年8月に記録した13秒18だ(学生歴代2位)。

今後の目標は「日本選手権でメダルを獲る」と話すが、具体的に思うことは滅多にないという。「自分の納得いくレース、納得いく動きができたら私はそれでいい」と淡々としている。

女子100mハードルの日本記録は寺田明日香選手による12秒97だが、12秒台について田中選手はこう考えている。

「何をしたら12秒台が出るかはわからないです。でも何をしたら今より速くなるかはわかっている。その結果として12秒台があればいいと思っています」

かつて宝塚に憧れた少女は中学で陸上を始め、100mハードルで開花した。大学卒業後も競技の継続を希望する田中選手。今日もまた立命館大学の陸上競技場トラックで、ハードルを跳び越えていく。

100mハードルは私の生活の一部です。生活に組み込まれています

撮影:Hideyuki Gomibuchi

選手プロフィール

田中佑美(たなか ゆみ)ツイッター

  • 1998年12月15日生まれ、大阪府出身
  • 立命館大学経済学部4回生、女子陸上競技部所属(専門は100mハードル)
  • 宝塚歌劇団が好き
  • 座右の銘は「継続」
  • ルーティン、ジンクスは作らないようにしている。理由は「できなかった時に辛いため」

※取材時期は3月中旬

≪関連記事≫

学生アスリートの一日の過ごし方 ~立命館大学・田中佑美の場合~

「伴走者」とは何か。リオを経験した日野未奈子が語る、その“役割” 「選手にも、支えてもらっている」

「パラリンピック文化を日本に根づかせる」 陸上パラアスリート堀越信司が見据える2020年

おすすめPR

META POG

Advertisement


Advertisement

まだデータがありません。