【WTA】大坂なおみ、涙と敗戦の理由 BNPパリバ・オープンで考える人種問題

試合中のヤジで涙を流す大坂なおみ(C)Getty Images

試合が始まって間もなく第1セット2ゲーム目、大坂なおみの2回戦の対戦相手であるベロニカ・クデルメトバ(ロシア)がサーブのモーションに入ろうとしたとき、スタジアムに「Naomi you suck!(なおみ、お前は最悪だ)」という言葉が響いた。

ポイントに入る前の一瞬の静寂を利用し、その言葉はとてもクリアに彼女の耳に届いた。

放たれた罵声の意図が何だったのか分からないが、この言葉は観衆が想像した以上に彼女を動揺させ、研ぎ澄まされた集中力と機敏な動きを奪い去っていった。泣かずにゲームを続けようとしても、またこみ上げてくる涙。心ない叫びを声にした人物にはブーイングが起き、また大坂がポイントを取るたびに励ましの声援と拍手が送られた。しかしその後の健闘も結果に届くことはなく、彼女が笑顔でコートを出ていくことはなかった。

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■大坂なおみが大きく乱れた理由とは…

何故これほど大坂は乱れたのか。それは試合後に知ることになる。事が起きてから、何度も主審とディレクターに「マイクを貸してほしい。発言させてほしい」と伝えてきたことが試合後に受け入れられ、彼女は声を振るわせながら涙ながらに説明した。

「正直なところ、以前にも罵声を浴びたことがあるけど、そのときはあまり気にならなかった。でも、ここで罵声を浴びせられたことで……。ビーナスとセリーナがここで罵声を浴びているビデオを見たの。見ていない人は見た方がいい。なぜだか分からないけど、頭の中に入ってきて何度も再生されて…」。

彼女の涙の理由は、2001年の同大会でウィリアムズ姉妹が直面した「人種差別的虐待」を思い起こさせたからだった。2001年のインディアンウェルズ大会でビーナス・ウィリアムズと父・リチャードが、セリーナ・ウィリアムズの決勝戦を見るために席に着くと、観客から大ブーイングを浴びせられた。発端はビーナスが準決勝を棄権したため。それはケガが原因だったが、リチャードは娘同士の対戦を阻止するため、試合を操作したとも言われたからだ。そして観客の怒りはセリーナに向けられ、セリーナがキム・クライシュターを破り優勝した後もヤジは続いた。その後、セリーナは勝利後も涙が止まらなくなりロッカーでずっと泣いていたとも語っている。両姉妹はこの大会をボイコットし、セリーナは2015年まで、ビーナスは2016年まで同大会に参戦しなかった。リチャードはアフリカ系アメリカ人への人権侵害だと吐露した。

「そこまで敏感に反応しなくても」そう疑問に感じた人は、人種差別問題から距離がある生活をして来たのかもしれない。

私の人生も人種差別を色濃く感じてきた方ではないだろう。現役時代、各国への遠征時に時折アジア系を嫌う者に会うことはあっても「黄色人種だから」と肌の色を指摘され、自身のアイデンティティを傷つけられるまでには至らなかった。だが現在、この2022年より米国で暮らす中で、黒人への人種差別に対し、これまでとは違う日常を目にしている。

2月に図書館へ訪れた時、子供たちのプレースペースには「Black History Month」のコーナーが設置されていた。Black History Monthとは困難な歴史を持つアフリカ系アメリカ人の多大な努力と献身をアメリカ国民が認め、敬意を表す28日間というものだ。読みやすいファミリー向けの絵本から歴史と快挙について幅広く用意されている。故に子どもたちにとっても人権問題は日常のなかにあり、多国籍移民を抱えるアメリカならではだと実感している。

またクルマで街を走っていると「Black Lives Matter」と庭に大きな看板を掲げている家をよく見かける。この人権活動は日本で育った私には馴染みがなく、2020年に白人警察の黒人殺害の事件からSNS上で広がった際に知ることとなり、全米オープン大会時に大坂がマスクを用いて立ち向かったことでより考える機会となった。

そして米国に渡ってから偶然にも発砲事件の現場に遭遇したことから、家族との生活を守るため、どの場所が危険な地域で事件数が多いかと調べることが増えた。その過程では悲しいことに多くのアフリカ系アメリカ人が犯罪に巻き込まれ亡くなっていることも知った。

これらのことから、この地で起きてきた人種差別の根深さとリアルを身近に感じている。肌の色が違うだけで、自身のアイデンティティや未来を脅かされるほど怖いものはない。ハイチ系アメリカ人の父と日本人の母を持つ大坂が幼少期からどれほど苦労してきたかは言うまでもなく、その経験からテニスをツールにあらゆる社会問題に真摯に取り組んでいる姿には知性に加え覚悟を感じる。

ウィリアムズ姉妹にインスパイアされテニスを始めた大坂にとって、ウィリアムズ姉妹がコートの中で受けてきた誹謗中傷、さらに人権問題を知ることは自然なことだっただろう。そして彼女たちが傷ついた過去が、同じインディアンウェルズの地で自身に起きたと受け取った大坂は、どうしても黙っていられなかったのだと想像している。

スポーツにヤジも珍しいことでないかもしれない。だが、いくらお金を払って観戦してくれているファンだからと言って、人へ投げかける言葉を選ぶことを忘れないでほしい。サッカーなどと比べ、静かでおとなしいとされるテニスの観客からの罵声だけになかばショックでさえあった。コロナ禍の中、やっと有観客の大会が戻ってきただけに、なんとも心苦しい結末だった。

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著者プロフィール

久見香奈恵●元プロ・テニス・プレーヤー、日本テニス協会 広報委員

1987年京都府生まれ。10歳の時からテニスを始め、13歳でRSK全国選抜ジュニアテニス大会で全国初優勝を果たし、ワールドジュニア日本代表U14に選出される。園田学園高等学校を卒業後、2005年にプロ入り。国内外のプロツアーでITFシングルス3勝、ダブルス10勝、WTAダブルス1勝のタイトルを持つ。2015年には全日本選手権ダブルスで優勝し国内タイトルを獲得。2017年に現役を引退し、現在はテニス普及活動に尽力。22年よりアメリカ在住、国外から世界のテニス動向を届ける。


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