またも少年時代の思い出になるのだが、1970年代まで、選手の「引退試合」の頻度は今とは比べられないくらい、滅多にないことだった。球団生え抜きの大打者や大投手に限られていたし、今と大きな違いは引退翌年の春、オープン戦で行われていたことだった。
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■同僚への配慮の側面も大きい引退発表
それぞれの選手が引退をいつ表明したかは、すべてについて明確な記憶はないのだが、多くの場合は全盛時から成績は見る影もなく落ちていて球団関係者もファンもうすうす気がついてはいるものの、発表そのものは優勝の可能性が消滅したとか、順位がある程度確定したときというのが多かったと思う。
相撲のように「引退を口にしたら二度と土俵には上がれない、相手に失礼」というほど厳格ではないが、それでもときどき大リーグや昨今のNPBでもたまにいるようにシーズン前に「今季限りで引退」と宣言することは一部の例外を除いてほとんどなく、その「中間」のような状況での引退発表が一般的ではなかったかと思う。戦っている同僚への配慮という側面が大きいと思う。
シーズン終了後の引退発表が世間を驚かせたのは1980年の王貞治(その年30本塁打を記録)、1983年の小林繁と1987年の江川卓(ふたりともその年13勝)の3人ぐらいしか思い浮かばない。
リーグ優勝を果たした現役最終年に27本塁打を放った広島カープの山本浩二は、いまだに一度しかない第8戦までもつれた日本シリーズに敗れるまで引退は発表しなかった。ただ、試合終了後の観客への挨拶のしかたなど、マイクを持ったセレモニーはなかったが、長年の応援に感謝する表情が見て取れた。10勝した広島黒田博樹はリーグ優勝を果たし、クライマックスシリーズのファイナルステージに勝利した後、日本シリーズの前に今季限りの引退を表明した。珍しいタイミングでの引退発表であった。
昔はペナントレースに「これが最後の試合」とおおやけになっていた例は1974年の長嶋茂雄以外ないのではないだろうか。このときも発表自体はジャイアンツが10連覇の可能性が消滅した直後のことだった。
ここまでのスーパースターが公式戦を引退試合にすることに異を唱える人はファンはもちろん球団の内部にも誰もいないと思うけれども、もしこの最後のダブルヘッダーにジャイアンツが連勝すれば優勝、という場面で2試合とも接戦だったら果たして川上監督は打率2割5分を切った三塁手を先発起用はもちろん代打でも起用しただろうか。
■セレモニーだけ行った1994年の北別府
忘れられないのは1994年の広島が終盤追い上げを見せ、このシーズン限りで引退を表明した球団生え抜きで通算213勝を挙げた北別府学の最後である。結果的には3位に終わったものの本拠地最終試合ではまだ優勝の可能性も残る熾烈な優勝争いをしていた広島・三村敏之監督は、最終戦も8-7というクロスゲームとなり、北別府に登板機会を与えず、試合後セレモニーだけが行われた。ベンチ入りした引退表明選手が出場なくセレモニーだけを本拠地最終戦で行った唯一の例ではないだろうか。
上述したように、まだまだ当時は引退試合をするとすれば翌年春のオープン戦が多く、1970年代では南海・杉浦忠、阪神・村山実、80年代では中日・谷沢健一、巨人・江川卓、阪急・山田久志と福本豊(この年、他選手はすでにオリックスのユニフォームで、この2選手のみが阪急ブレーブスのユニでオープン戦に出場した)、90年代では中日・小松辰雄らの引退試合が思い出深い。
ただし、いずれも公式試合ではない。
明確な記録を調べられないのだが、引退を表明した選手が公式試合に出場した例は1995年の巨人・原辰徳あたりから復活するようになり、2001年に斎藤雅樹と槇原寛己と村田真一(ともに巨人)が長嶋監督最終試合の流れの中で試合とセレモニーが開催されたころから、他球団も年中行事となっていったように思う。
引退する打者が一軍投手の投球を必ずヒットにできるとは限らないが、引退する投手の投球を一軍の打者が空振りすることは可能である。このころから、そういう三振が目立つようになった。顔の高さのボールを空振りした例も挙げることができる。