昨年12月3日に封切りされたアニメ映画『THE FIRST SLAM DUNK(ザファーストスラムダンク)』は一部劇場を除き、8月31日で上映を終了した。9カ月に及んだロングラン上映で観客動員数は約1075万人(8月27日現在)となり、興行収入は155億円以上に達した。
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その人気コミック「スラムダンク」の主人公、桜木花道が通う湘北高校のライバル校、陵南高校の田岡茂一監督のモデルになったと言われる人物が沖縄にいる。
沖縄でバスケをやる人なら誰もが知ると言われる伝説の闘将、安里幸男(69歳)だ。
■「体格がどうであれ、同じ高校生」
沖縄本島北部の奥地、「やんばる」にある無名の辺土名(へんとな)高校を1978年の山形インターハイで全国3位に導き、1991年には本島中部の北谷(ちゃたん)高校を浜松インターハイで全国3位に導いた。
安里の名前とほとんど本土に知られていなかった沖縄バスケを全国に知らしめたのは、1978年の山形インターハイで起きた“辺土名旋風”だ。
「スラムダンク」の原作者、井上雄彦自身も今回大ヒット映画の公開に合わせ出版された『THE FIRST SLAM DUNK re: SOURCE』のインタビューの中で「少し独特な沖縄のバスケにはもともと注目していた。(中略)小柄な選手が運動量豊富に素早く動き回る。僕が高校生になる数年前に“辺土名旋風”というのがあった」と当時の衝撃を振り返る。今回の映画では通常の主人公、桜木花道ではなく、沖縄出身の背の低いポイントガード、宮城リョータと家族に焦点が当てられた。
井上に宮城リョータ誕生のインスピレーションを与えた“辺土名旋風”。
平均身長約167センチの辺土名高校(辺土名)バスケ部の選手たちが前に押し出す攻撃的なディフェンス、スピードと抜群のシュート力を武器に自分たちより身長が高い選手を擁する相手高校を打ち負かし、全国3位まで勝ち進んだのだ。速いドリブルはマスコミから「超音速」とまで表現された。
本土どころか、辺土名がある沖縄本島北部「やんばる」から那覇に行くのは早朝に出発しても帰りは夜になった。泊まりがけで那覇に練習に出向くこともあったという。
沖縄県大会で優勝し、全国大会への初出場を果たした山形のインターハイで、選手たちは右も左も分からなかった。
当時でも本土の選手の中には190センチ台がいた。辺土名の選手たちはこれら本土強豪校の選手たちと並ぶと首一つほど小さかった。
当時の練習ノートを見せてもらったが、「どのチームも平均10~15センチは大きいと仮定すること。身長差は致命的なものである。しかし、体格がどうであれ、同じ高校生であることには変わりはない」と書かれていた。
辺土名のチームの平均身長は「女子の部に入れても下から数えて三番目」だったという。それでも安里は怯むことなく、選手たちに「日本のバスケットの方向性を示すようなゲームを必ずやろう」と言って鼓舞し、ベスト3という結果を残した。
身長と体格で劣る辺土名の選手たちがディフェンスを前に持っていく攻撃的プレーと、40分間走り続けて相手チームを疲弊させ打ち破っていく姿を通し、安里は、身長と体格で劣る日本代表が外国勢の足元にも及ばない状況に萎縮していたバスケットボール関係者に、「日本のバスケもこうやったら勝つ」との見本を示した。
安里は「(体の大きい)本土のチームを外国人に見立てて、試合に臨みました」と当時を振り返る。
■安里の原点ともなった出会い
辺土名高校は安里の母校でもある。安里自身も中学からバスケを始め、辺土名高校に進学するが良い指導者に恵まれず、県大会に出ても初戦敗退する屈辱を味わった。
自らが指導者になって、「やんばるの後輩たちにバスケを教えてやろう」との思いで本土の中京大学(愛知県)に進学する。
卒業を間近に控えた2月、日本一の高校の練習風景を見ようと秋田県の能代工業高校(現・能代科学技術高校)を訪ねる。
アポも取りつけず行き、体育館の扉を開いた。
「60人はいた部員がその瞬間に練習を中断し、見ず知らずの私に直立不動の姿勢で挨拶したんです。目が一つに見えました。やる気に満ち溢れた集団というのはこういうものかと圧倒されました」。
体育館の中といえども、冷蔵庫の中のように冷える秋田の冬、それでも選手たちの体からは湯気が上がっていたという。
「ハートに火をつける。やる気にさせるというのはこういうことだと悟りました」。その日は能代工業高校の加藤廣志監督の家に泊めてもらい語りあった。そして、この日はまた、後に闘将となる安里が覚醒した日ともなった。
「スラムダンク」では能代工業高校が山王工業高校のモデルと言われる。卒業生には2004年に日本人初のNBAプレーヤーとなった田臥勇太がいる。